望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

人道が理由にされる

 「国連憲章が承認している戦争は二つしかない。一つは『自衛戦争』です。もう一つは『国連が委託した戦争』。悪い奴がいてどうにもしょうがないから罰しようと思うけど、国連軍は存在しないので、国連加盟国の中の有志を募って頼むわけです。征伐してくれと」(加藤周一著『語りおくこと いくつか』)。

 だが、2003年のイラク戦争は「明らかに国連安全保障理事会が委託決議案を出していません。アメリカにサダム・フセインの撃った弾が落ちているわけじゃないから自衛とは言えない。将来、サダム・フセインという人の攻撃があるかもしれないから先制攻撃するというのは、国連憲章によれば合法とは言いにくい」(同)。

 戦争とは、国家などの政治的集団が武力を行使して争うことで、中長期に渡って続くものだ。だから、例えば、ある勢力により数時間のミサイル攻撃が行われたが、攻撃された側の反撃が限られ、それ以上の戦闘行為に発展せずに終息したものなら、武力行使があったことは確かだが、戦争とはみなされない。

 ただし、そうした武力行使が容認されているわけではない。国連憲章は第2条で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」としている。

 戦争も限定的な武力行使も国際的に禁じられているのが現代だが、問題は、ある国家の内部で非人道的な行為が行われているときに、国際社会は何ができるか(=何ができないか)ということの明確な決まりがないことだ。だから、人道を理由に、ある時は軍事的に介入し、ある時は無視することになる。

 国際社会は、1970年代にカンボジアで虐殺が行われているときにも、1990年代前半にボスニア・ヘルツェゴビナで虐殺など民族浄化が行われているときにも、1994年にルアンダ国内で虐殺が行われているときにも、無力だった。国際社会が動くには、事実の正確な把握が必要だが、入国を制限されたなら、国際社会は断片的な情報しか得ることができない。

 戦争の時に禁止される行為は、いわゆる国際人道法によって明確化されつつあるが、ある国の内部で行われる非人道的な行為に対して国際社会は、国家主権の壁に阻まれる。「人間には倫理的に耐えられることの限界がある。その限界はどこにあるか」(同)。平時における国際人道法が必要なのだが、ここにも国家主権の壁が立ちはだかる。