望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ドイツとナチスの罪

 ドイツでは1933年にヒトラーの首相就任後にユダヤ人の商店に対する不買運動や公職者の追放が始まり、1935年にはユダヤ人の市民権が剥奪され、1938年に全てのユダヤ教会などが破壊され、ユダヤ人の資産の没収が始まり、1939年にはユダヤ人は職業に就けず、学校に行けず、非ユダヤ人との交際が禁じられ、ゲットーに住むように命じられた(ブリタニカ国際大百科事典)。

 戦争が始まり、ナチスは占領した土地でユダヤ人をさまざまな方法により殺害し続けたが、1942年のワンゼー会議で、ヨーロッパの占領地全体からユダヤ人を東部の収容所に組織的に移送し、「しかるべき扱い」に処することを決定した。やがてユダヤ人の大量殺害の最も効果的な方法として特別なガス室が考案され、大量虐殺が進行した(同)。

 ドイツが行ったのはまず、国内でドイツ人と共存していたユダヤ人に対する憎悪を煽り、ユダヤ人の諸権利を剥奪し、社会から強制排除した。開戦とともにドイツは占領地でも同様のユダヤ人に対する迫害を広げた。ドイツは「ユダヤ人の絶滅」を目標に冷酷に、効率が良い殺害方法を模索し、強制収容所でのガス室で多数を一度に毒ガスで殺害するという大量虐殺を実行した。

 ドイツにだけ反ユダヤ主義があったのではなく、欧州各国にもユダヤ人に対する差別や排除などは存在し、それがシオニズムパレスチナへの帰還とユダヤ国家建設を目指す運動)につながり、1922年から英国が委任統治したパレスチナへのユダヤ人の移住が続いた。ユダヤ人の移住者が増えるとともにパレスチナ人との軋轢が強まり、武力衝突も始まった。

 ドイツにおけるユダヤ人に対する迫害政策のため、パレスチナへの欧州からのユダヤ人移住はさらに増え、入植地が拡大するとともにパレスチナ人との対立は激しくなった。1947年の国連のパレスチナ分割案勧告決議に基づき、イスラエルは1948年に独立宣言を行い、アラブ諸国との第1次中東戦争に勝利し、国連の分割案よりも領域を拡大して占領を続けている。

 もしドイツでユダヤ人に対する憎悪が高まらず、ユダヤ人の迫害や社会からの強制排除が行われず、ナチス・ドイツによる大量虐殺も行われていなかったとすれば、イスラエルの歴史は全く違ったものになっていただろう。シオニズムによるユダヤ人のパレスチナ移住はナチス・ドイツの登場以前から続いていたのでイスラエルの建国は実現したかもしれないが、パレスチナ人との共存を目指す建国だった可能性はある。

 ドイツが欧州でユダヤ人に圧力を加え、移住したユダヤ人がパレスチナに圧力を加え、パレスチナ人の反発が高まる。ガス抜きする仕組みが皆無と見える中東では、圧力に対抗するには対抗圧力を持ってするしかなく、溜まった圧力は爆発する。ドイツとナチスの所業の延長上に現在の武力に頼るイスラエルが建国され、妥協を排除し、パレスチナ人の虐殺を許容する強硬な姿勢を貫いているのだとすれば、ドイツとナチスの罪は現在にも及んでいる。