望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ダビデ像

 ダビデ旧約聖書に出てくる人物。若い頃に敵の巨漢戦士ゴリアテと対決、ダビデの放った石が見事に額に命中してゴリアテを倒した英雄で、長じてイスラエル王国の王になった。実在したかどうか諸説あるようだが、モデルになっただろう人物は存在したようだ。

 そのダビデゴリアテに立ち向かう様子を表現したのがミケランジェロダビデ像だ。600年以上前に制作されたミケランジェロの代表作であり、世界的な傑作であるとの評価が定着している。

 ダビデが実在したとしても、写真があるわけではなし、どんな姿をしていたのかミケランジェロも知ることができなかった。ダビデ像の姿が本人に似ているかどうかは誰にも分からないのだが、ダビデ像を見た人は、素晴らしい造形に感嘆し、それがダビデの姿だと思うだろう。ミケランジェロは、典型としてのダビデ像を創造した。

 「ミケルアンヂェロはダヴィデの伝説そのほかの諸条件をすべてまもるとともにそのことごとくの形式をやぶって、唯一の内容を表現した」(『ミケルアンヂェロ』羽仁五郎著)のであり、「フィレンツェ自由都市国家の永遠の純真としかしまたその勤労民衆の力強さと、その自由のわかわかしさとしかしその希望と、その動揺としかしその不屈と、これらこそがそのままミケルアンヂェロその人であり、またかれがそこに芸術的表現を与えようとしたところのものであった」(同)。

 「ミケルアンヂェロのはじめからの意図により、ダヴィデはフィレンツェ自由都市共和制議事堂前面すなわちかのパラッツォ・ヴェッキオの入り口をまもりピアッツア・デラ・シニョリアの民衆集会の広場からの大階段の壇上に立てられたのである」(同)。強力な敵に立ち向かう姿が、周囲の敵に立ち向かう都市国家フィレンツェ共和国の精神を表現したものとダビデ像は解釈された。

 ダビデ像に付随した解釈は長い時間とともに希釈され、ダビデ像を鑑賞する現代の大半の人々は、そのような解釈を必要としない。そんな解釈が存在しなくても、鑑賞に耐える表現がダビデ像だ。都市国家フィレンツェ共和国の精神が無価値になったわけではないが、そうした解釈からダビデ像は「独立」して、表現のみで傑作と認められた。

 アートには何らかのメッセージをまとう表現が珍しくなく、メッセージ性によって評価されるアートも珍しくない。だが、メッセージが希釈された後でも評価される表現が成立しているかどうかが問われるのが、本当のアートだ。作者の制作意図から離れても、表現だけで成立していることが本当にアートと呼ばれる条件だ。