望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

安定を求めること

 民主主義が実施されている国であることは、その国に住む人々にとって、強権で抑圧される支配よりマシだろう。民主主義の結果として、多様な利害関係が反映する議会が構成され、議論ばかりで「決められない」議会になったり、政治が機能していないように見えたとしても、強権で抑圧されるより遥かにマシだろう。

 民主主義が実施されている国では政府は、揺れ動く民意の反映として形成されるので常に現在形である(不安定ともいえる)。議論が百出し、長期的な展望に基づく政治ではなく、日々の変化に対応するだけの政治が行われているようにも見える。そうした現在形(不安定)の政治こそが民主主義による政治の「証」であるのかもしれない。

 安定した政治(政府)を求めるなら、揺れ動く民意を政治に反映することを制限すべきという発想が生まれる。そこで問題になるのは、どこまで民意の反映を制限するかということだが、これは権力の正統性と関わる。許容される民意反映の制限の範囲は明確ではないし、社会状況によって常に変化する。

 民意反映の制限は、民主主義においては許されないという考えもある。「主権者が自由投票により選出した代表による議会が国政の方向性を定めること」と民主主義を定義するなら、民意反映の制限は民主主義に背を向ける発想になる。だから、別の大義名分を掲げて選挙制度を手直しするぐらいが現実に行われる民意反映の制限となる。

 安定した政治(政府)を求める声が高まり、民意反映の制限を主張する勢力に主権者が自由選挙で多数議席を与え、政権を委ねるならば、民意反映の制限が行われよう。民主主義の弱点は、民主主義の否定を民主主義によって行うことができることだ。歴史上に実例は多々ある。

 ここで問われているのは、政治の安定が意味するものは何かである。強権による抑圧政治が行われている国は外からは、安定しているように見える。異論を許さず、強権で封じ込めるのだから表面的には安定して見えるが、抑圧された人々は移民を夢見たりする。政治の安定そのものに価値はあるのか。

 民意が揺れ動くものであるなら、民意を反映した政治が揺れ動くのは当然だと、民主主義を支持する主権者は理解すべきだろう。政治に安定など求めず、民意を反映した揺れ動く政治を常態だと見て、向き合い続けることが民主主義を維持するためには必要なのだ。