望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

事実と解釈と意見

 情報リテラシーという言葉を見かけることが多くなったが、リテラシー(literacy)とは「読み書きの能力、識字力」のことで、新明解では「①読み書き能力(の程度)。②その時代を生きるために最低限必要とされる素養。昔は、読み・書き・そろばんだったが、現代では情報機器を使いこなす能力だとされる」。さらに、「与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力」との意味でも使われることがある。

 だから情報リテラシーは「情報機器を利用して、膨大な情報の中から必要な情報を抜き出し、活用する能力」となる。必要な情報が何かを知らなければ、膨大な情報の中を漂い、不要な情報に引っ掛かったりする。何が必要な情報なのかを見分ける能力が備わっていなければ、情報リテラシーは低い。

 だが、必要な情報は多彩だ。客観的に正確な情報だけが求められるとは限らず、明らかなフェイクニュースや中傷、有名人の真偽不明のスキャンダル情報などを面白がって探したり、政敵やライバルなどを批判するため攻撃する材料を探し出したりもする。そうした行為においても情報リテラシーは駆使される。

 情報の最大の提供源はテレビや新聞、雑誌などのマスメディアで、マスメディアが報じる大量の情報の中から必要な情報を抜き出す能力がメディア・リテラシー。だが、現在はSNSなどインターネット上にも大量の情報が流れているので、メディア・リテラシーの対象は拡大し、また、メディアでの表現(個人の情報発信)も活発化したので、そうした能力も重視される。

 情報は大別して①事実を伝える情報、②虚偽を伝える情報、③解釈や意見を伝える情報ーに分かれる。情報リテラシーが高いと見える情報通が、実はメディアに溢れる解説者や評論家、ブロガーらの解釈や意見を事実と混同して受容していることもある。①(事実を伝える情報)と③(解釈や意見を伝える情報)を見分けることができなければ、情報リテラシーは低い。

 ①(事実を伝える情報)と③(解釈や意見を伝える情報)を混同するのは、事実を軽視するためだ。事実に基づいて自分で考える手間を省き、自分の感覚に合う解釈や意見を拝借する。多くの人はメディアに影響された意見を持つが、おそらく①と③を混同しているとの自覚はないだろう。

 解釈や意見には主観が混じるが、事実は主観を排除したものとされる(事実にも主観が混じったフェイクがある)。事実と解釈や意見が入り混じると主観と客観が入り混じり、主観が主導するから、リテラシーが高いことと正確な情報を得ることは必ずしも相関しない。正確な情報より、主観に合う情報や主観に都合がいい情報を抜き出すのにもリテラシーは活躍する。