望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

非常時と非日常と日常

 個人にとっての非常時とは、大きな地震や猛烈な台風などの自然災害や無差別殺人行為などに直面した時だろう。生命の危機を感じた時が個人にとっての非常時だ。その最中では、自分の身は自分で守るしかなかったり、周囲の人々と助け合ったりするしかない。

 非常時を生き延びた人間は、例えば、大きな地震の後、ライフラインや通信、交通などが機能を停止したりするので、非日常の中に放り出されることがある。そこでも生き延びることが最優先となり、安全な居場所を探し、飲料水や食料を確保することなど生存欲求がむき出しになる。

 非常時から非日常へ、そして、国家や社会の支援なども始まって、やがて人々は日常へと復帰する。非常時や非日常の体験は特別な体験だが、そうした体験は日常においては希釈され、やがて記憶の底に埋もれる。非常時や非日常の論理と日常の論理は異なり、むき出しの生存欲求は日常では隠蔽されるべきものだからだ。

 非常時や非日常の論理と日常の論理が異なることで、例えば、被災地で避難生活を長く強いられる人々が、日常に復帰した世間に違和感を抱いたりする。そうした人々にとっては非日常が続くのだが、世間は日常の論理で動いているから、非日常と日常の共存状態におかれる。

 非日常と日常の論理の感覚的な差異は(個人差は大きいだろうが)、例えば食料でみると、非日常では、何でもいいから食べるものを確保することに懸命になる。開いている店舗で真っ先にパンやカップ麺、レトルトなどの棚が空っぽになり、次に他の食品の棚も空っぽになる。

 当座の食料を確保できたことで満足するのが非日常の感覚だが、やがて、カップ麺ばかりじゃ飽きると感じるようになり、変化を求める。開いている店舗をあちこち探して、以前に食べていたようなものを求めるようになるのは、日常の感覚に復帰し始めた証だろう。

 誰もが突然、被災者になる。非常時には生存欲求に従って行動し、非日常にも生存欲求に従って生き延び、やがて日常に復帰する。変化が乏しい退屈な日常を生きることは、色あせた人生ではなく、それが人間の生そのもので貴重なのだと、非日常から日常に復帰した人は感じるだろう。