望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

新しい日常

 平穏な日常が一瞬にして消え、非日常の中に突然投げ出されることは、日本に暮らす多くの人にとって希有な体験ではない。大地震は日本の各地で発生し、自然も人工物も破壊される。無事だった人も、電気などライフラインが断たれ、不自由な生活が続く中で生き延びることを余儀なくされる。やがてライフラインなどが復旧し、生活が以前の状態に戻ることで新しい日常が始まる。その新しい日常は以前の日常に被災の記憶が加わったものだ。

 新型コロナウイルスによる感染症の世界的流行は勢いを増し、日本でも緊急事態宣言が出され、飲食店には営業時間短縮、人々には不要不急の外出自粛、企業には出勤者の7割削減などの対策を徹底するよう政府は呼びかける。パンデミックも人々から平穏な日常を奪ったが、その終息が見通せず、日常への復帰の目処は立たない。

 むしろ、ウイルスとの共存という新しい日常への移行が現実味を増す。非日常が日常化するとは、世界が変わったということだ。非日常をもたらした要素が生活の中に組み込まれ、それまでの日常を変化させる。例えば、インターネットの出現や携帯電話の普及は世界で人々の生活を変え、新しい日常を人々は受け入れた。

 人々に歓迎されない新しい日常もある。例えば、内戦などで政府が崩壊状態になり、あちこちで戦闘が起きているなら、自力で生き延びるしかない新しい日常に人々は直面する。また、ゲリラや麻薬組織など暴力集団が実質に支配し始めた地域で人々は、生き延びるためには暴力集団に逆らわず、従うという新しい日常を生きざるを得ないだろう。

 コロナウイルス感染症SARSやMERSはほぼ終息したが、今回の新型コロナウイルスの感染拡大の勢いは拡大し、世界でマスク着用は定着、外出が制限され、人々は互いに距離をとるなど、いつまで続くか不明な新しい日常に人々は移行している。この新しい日常は人々に何の利便性ももたらさず、むしろ経済活動を含め従来の日常を破壊した。恐怖に強いられた新しい日常は暴力集団に逆らわずに生きるしかない状況に似た。

 新しい日常を生きる人々が得たものは、失った日常がいかに価値あるものだったのかという認識だろう。人が集まった時の何気ない会話や友人らとの飲食、演劇やコンサート、スポーツ試合など見に行くこと、気軽に旅行に出ることなど、新しい日常では不要不急とされたそれらが、いかに人生に潤いを与えるものだったのかに気がついただろう。

 不要不急とされたものが排除され、必要とされる行為だけが許される新しい日常を人々は、新型コロナウイルス感染が終息するまでの非日常と受け止め我慢する。だが、その非日常がそのまま新しい日常になるとすると、人々は黙って適応するのか、我慢ならないと抗うのか。感染が続くなら政府ではなく人々がやがて、何が必要か、何が不要不急かを判断することで新しい日常は形成されるだろう。