望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

見えない安定

 2020年からの新型コロナウイルスの世界的な流行は、日常の安定という現象は微妙なバランスの上に成り立っているものであり、この世界は常に変化を続けていて、時には破壊的な変化がもたらされて、それまでの安定から人々は放り出され、新たな混乱・混沌の中に置かれることを示した。新型コロナは世界を変え、新たな安定は見えてこない。

 新型コロナは、国境を越えるグローバリズムという経済活動に打撃を与え、観光客の世界的な移動を止め、人々はそれぞれの国内に閉じ込められた。その各国の国内では、パンデミック対策のロックダウンなどで経済活動が大きなダメージを受け、人々は「集まるな、密になるな、接触するな」と警告される中、収入が減ったり職を失ったりと、マイナス方向の変化にばかり直面している。

 新型コロナが世界にもたらした変化は、このパンデミックが終わって以前の状態に戻っても、全てが消えるわけではない。例えば、各国で進んだキャッシュレス化やリモートワーク化などは、その利便性が認識されて更に進行するだろう。人と人が接するビジネスから、デジタルを介した非接触型の経済行動へという変化はコスト低減をもたらすので、加速することはあっても、逆戻りすることはないだろう。

 世界で新型コロナは人々が「会う」ことを制約した。会って話をして、時には一緒に飲んだり食べたりすることがいかに大事な行為であるかを、制約されたことで人々は痛感した。パンデミックが終息すれば人々はすぐに直接会うことを再開し、盛大に互いの無事を喜びあうだろうから、新型コロナは人々に会うことを諦めさせることはできなかった。だが、現実には人々は会うことを制限され、人々は分断されて生きることを強いられている。

 新型コロナのパンデミックがいつか終息すると人々は期待し、大量のワクチン接種が行われるなら21年後半にも終息に向かうと専門家は予想する。だが、そうした予想に確かな根拠は希薄で、先行きは誰にも分からないというのが現実だ。だから、新型コロナがインフルエンザ同様の感染症として居座り、人々は「共存」せざるを得ないのが新たな日常となる可能性はある。そうなると新型コロナを特別に恐れないことで新たな安定した日常がもたらされよう。

 新型コロナと「共存」する新しい日常になれば、経済活動が活発になり、人々が自由に移動し、観光旅行も国内外で復活して、飲み会や宴会、イベントなども気軽に行うことができるようになるかもしれない。だが、新型コロナが感染症として特別視されなくなると、感染者はおそらく自費での治療を強いられるだろう(財政には限界がある)。

 相当数の感染者と死者を許容しながらの日常では、経済的な弱者は更に過酷な社会に生きることになる。各国政府は負債を増やして新型コロナ対策に過大な支出を続けたから、いつか、その帳尻を合わさなければならなくなるので、誰もが手厚い社会保障を望むことは難しくなるかもしれない。

 主権者である人々はパンデミックによる変化には受け身であったが、社会の変化には主体的に関与することができるし、主体的に関与しなければ不利益を押し付けられるだけだ。主権者としての意思表示や行動が、社会に変化を生じさせる。受け身ではなく、立ち向かって発言し、行動することで得られる安定は、変化に強い。人々が変化の主導権を握るからだ。