望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

感染放置で集団免疫獲得

 中国の習近平国家主席は昨年12月31日、「科学的で正確な感染対策を行い、人民の生命と安全、身体の健康を最大限守ってきた」とゼロコロナ政策の成果を強調してから「防疫措置は新たな段階に突入した」と方針転換を明言したと報じられた。さらに「まだ苦労が続くが、夜明けは近づいている」と述べ「団結こそが勝利だ」と国民の結束を促した。

 中国において科学的とは政府の施策を正当化する装飾語であり、団結とは政府の指令に全員従って行動せよという意味だ。防疫措置の新たな段階とは、感染拡大を放置する一方で、あれだけ熱心に行ってきた街中でのPCR検査を廃止して感染者数の把握を諦め、新型コロナウイルスによる死者の定義を狭めて死者数も少なくするという状況を示す。かくして中国政府が発表するデータでは感染者数も死者数も少なくなり、ゼロコロナ政策の放棄が政治的に正当化される。

 だが、中国国内では感染者数や死者数が政府発表の数字を遥かに上回って多いとされる。様々な推測がなされているが、中国全土で億単位の感染者が出ているとすることでは一致するようだ。爆発的な感染拡大がいつ始まったのか定かではない。反政府デモが現れて中国政府はゼロコロナ政策からの転換を強いられたとの見方もあるが、ゼロコロナ政策が実質的に破綻していたから反政府デモをきっかけに突然の方針転換を行ったと見ることもできる。

 中国政府の方針転換は、ウイルスとの共存を目指していると見える。もう新型コロナウイルスを特別扱いすることをやめ、感染者や死者が増えても問題にしないとし、「夜明けは近い」とウイルスとの共存を人々に強制する。これは中国製ワクチンの効果がファイザー製などより低いことを踏まえ、中国の人々に感染を拡大させて集団免疫の獲得を狙った施策だとの解釈もある。

 集団免疫とは「人口の一定割合以上の人が免疫を持つと、感染患者が出ても、他の人に感染しにくくなることで、感染症が流行しなくなる状態のこと」(厚労省サイト)。人口の一定割合以上とはどれくらいか。人口の60〜70%という説もあれば、変異を繰り返す新型コロナウイルスでは集団免疫は難しいとの説もあり、ぼやけている。

 人口の6割程度の人が感染して免疫保持者となることで感染を収束させるという戦略を試みたのは英国だったが、感染拡大に直面してワクチン接種による集団免疫獲得へと方向転換を余儀なくされた。中国が感染拡大を放置して膨大な人々を感染させることで集団免疫の獲得に方向転換したのだとすれば、壮大な人体実験が進行していることになる。

 中国では感染拡大で数百万人が死亡するとも見られているが、新型コロナウイルスによる死者の定義を狭くしたので政府発表の死者数は極端に少なくなるに違いない。かくして中国政府はゼロコロナ政策終了後の防疫措置の新たな段階で、感染者数も死者数も少なくなったとして、「科学的な新たな感染対策は成功だった」とするだろう。

オウムと日本社会

 こんなコラムを2000年に書いていました。

 教団本部的に使用していた横浜支部からの立ち退きを求められていた上祐氏らオウム幹部がどこぞへ移転したという。あっちへ行っても、こっちに来ても「オウム出て行け」の大合唱で、ここは人権派の出番、「オウム信者にも人権はある」なんぞと弁護する人が出て来るに違いないと思っていたら、オウム憎しの声の前には全く無力、せいぜいが信者の子供の就学問題に触れる程度。(無差別)殺人者には救いはないのかというのは、また別問題、それこそ宗教の問題だろう。

 オウムと日本社会を見ていて、日本と国際社会の関係が頭に浮かんだ。

「おまえらは、あんなに酷いことをしておきながら、きちんと反省もせず、謝罪もしていないじゃないか」という心情にプラスして、オウム側が一連の犯罪行為の事実関係を明らかにしようとせず、説明もせずにいるところから来る「また、何かやるのではないか」との疑いが、オウムを見る目には込められている。

 オウム側としては、尊師なる絶対の存在を否定できない限り、一連の事件の解明にも謝罪にも踏み出せまい。事件に関与していたと尊師を批判することは、教団の存在に関わることであろうから、その尊師が明確なことを言わない以上は、教団として肯定も否定もできず、「これからは、おとなしく迷惑をかけないようにやりますから、受け入れて下さい」と言うしかないというところか。

 ここでオウムと日本を置き換えると、何やら類似点が浮かんでくる。

 50年以上前の戦争の影を払拭できない日本。「不幸な過去がありました。あんなことは、もうしません」と日本が言っても、国際社会は日本に対する疑いを捨てきれない。「尊師」の号令でまた戦争に動くのじゃないかと。一連の日本の戦争行為について、事実はどうだったのかという客観的な検証さえ、未だに国家として行っていないじゃないかと。反省も謝罪も十分に行っていないじゃないかと。そんな目で見られている。

マルコヴィッチの穴

 こんなコラムを2000年に書いていました。

 とあるビルの7.5階の一室の壁に穴があり、それは俳優マルコヴィッチの脳に繋がっている。穴に入るとマルコヴィッチの脳に乗り移ることができ、馴れればマルコヴィッチの身体を思うままに動かすことができる。

 こんなアイデアが浮かんだ時、「映画が1本できた」と監督は言ったのだろうな。あとはアイデアの面白さを損なわないで、ストーリーを展開するだけ。面白くて、ちょっと人生のほろ苦さをまぶした映画のでき上がりーとなるはずだったのだが。印象に残るのはアイデアの面白さばかりというのは、監督にとって、誤算なのか、計算通りなのか。それとも俳優の力量の問題か。

 若いカップルがいて、人形を愛する男は壁の穴を発見し、好きになった女をマルコヴィッチの身体を借りて抱き、ペットを愛する女のほうは、マルコヴィッチの目を通して同性の「恋人」を発見する。

 現代人の心と身体が分離していることを、マルコヴィッチの穴を使って表現しているのかもしれない。滑らかな動き(CGを使っていないとしたら、素晴しい人形遣いの芸だ)と固定した表情の人形も、その表現の一つだろう。他人の脳に寄生することで生き延びている男も、言ってみれば、心だけで生きていることになる。

押し倒して

 こんなコラムを2000年に書いていました。

 女性を押し倒し、ハイヒールを奪おうとした19歳の男が逮捕されたという。ダイヤをちりばめた純金のハイヒールを奪おうとした、のではない。「ハイヒールを履いた女性を見ると、その靴が欲しくなってしまう」と捕まった男は話し、以前から同様のことを何回もやっているという。

 事件は松戸市内の路上で10月18日午前9時半頃起こった。歩いていた女性に男が後ろから近づき、女性を押し倒してハイヒールを奪おうとし、抵抗されて男はハイヒールを奪うのをあきらめて逃げたという。

 この事件は未遂だったが、以前には「成功」したこともあったらしい。路上でいきなり若い男に押し倒された女性は、あれえーと絹を裂くような悲鳴をあげ抵抗しただろうが、男はハイヒールをぬがして、ハイヒールを持って逃げる。残された女性は何を思ったのだろうか。

 この男が暴力でハイヒールを奪おうとせず、路上で女性に「あなたの履いているハイヒールを譲って下さい」とでも言えば、まず断わられただろうし、金を出すからと言っても、応じる女性はほとんどいないだろう。といって、靴屋で買うのも、この男にとっては「コレクション」の意味がないんだろうな。

 やっかいな「マニア」が現れたものだ。ハイヒールが狙われ、そのうちブーツマニアとかスニーカーマニアとか現れ、女性の履くものがなくなってしまうぞ。

100年前は1923年

 全ての人々が国政に関与できる普通選挙法の制定を求める運動が広がるとともに、東京で約10万人が参加した大示威行進が行われたのは100年前の1923年(普通選挙法の成立は1925年)。西日本の各地で水平社の設立が相次いだこの年、各地で労働組合が3悪法(過激社会運動取締法・労働組合法・小作争議調停法)反対デモを行うなど大正デモクラシーは高まりを見せた。

 密出国していた大杉栄がパリ近郊のメーデーに参加して検挙され、強制送還されて帰国したのはこの年の7月だったが、9月の関東大震災の後に憲兵隊に拘束されて密かに扼殺された(伊藤野枝と6歳の甥の橘宗一も殺害された)。関東大震災の後には朝鮮人暴動の流言が広がり数千人が殺害され、社会主義者らに対する弾圧も行われた。

 関東大震災マグニチュード7.9、震度7震源相模湾北西部。死者・行方不明は約10万5000人、重軽傷者5万人以上という大災害だった(火災による死者・行方不明が9割弱と圧倒的に多かった。東京で夜に気温が46℃にもなった)。家屋の被害は甚大で全焼は約38万1000、全壊約8万4000、半壊約9万1000。損害額は約55億円と推定された(当時の国家予算は約15億円)。

 12月に摂政宮裕仁が難波大助に虎ノ門で狙撃された事件が起き、責任をとって山本権兵衛内閣は総辞職した(難波大助は大杉栄らや朝鮮人の虐殺に憤激して報復を企てたともされる)。この年、関東大震災のため京都に映画の中心が移り、マキノキネマや東亜キネマが設立された。7月に有島武郎が軽井沢の別荘で婦人公論記者の波多野秋子と心中し、死後に著作や関連記事を掲載した雑誌が売れた。

 この年に創刊された雑誌は多く、「文芸春秋」「講座」「アサヒグラフ」「少年倶楽部」「エコノミスト」などがあり、「赤旗」や「大阪都新聞」「アサヒスポーツ」も創刊された。東京相撲では待遇改善を求めて力士会がストライキを行い、小樽で第1回全日本スキー選手権大会や州崎埋め立て地で自動車大競争会が開催されたのも1923年だった。

 孫文は1月に中国国民党宣言を発表し、ソビエトが中国革命支援を表明、2月に孫文大元帥として広東軍政府を再建した。ソビエトから軍事などの顧問団を受け入れ、蔣介石を団長とする軍事使節団をモスクワに派遣するなどコミンテルンの関与で共産党との協力へ向かった(翌24年に国共合作=第一次=が成立)。

 11月にヒトラーらがミュンヘンバイエルン政府打倒の一揆を起こしたが、2日間で鎮圧された。これは1月に仏・ベルギー軍がルール地方を占領したがドイツ政府は穏やかに抵抗したのみで、急激なインフレやゼネストなどで国民生活が疲弊し、政府批判が強まる中で軍事独裁政権の樹立を目指して決行された。イタリアではムッソリーニが選挙法を改正して独裁体制を強めた。

三文役者の無責任放言録

 こんなコラムを2000年に書いていました。

 書店で文庫本のコーナーを見ていたら、壁の書棚の一角に、表紙を見せて殿山泰司の本が何冊か並べてあった。全く期待もせず手にとって開いたのが「三文役者の無責任放言録」(ちくま文庫)。あれ、こんな文章を書くのかと、適当に開いたページを読んで驚き、さらに別のページを適当に開いて走り読むと、どこを読んでも面白い。

 書かれた内容も面白いのだが、文章がいい。こういう風に書くことができたらと羨ましくなるような文章だ。決して美文ではないし、名文といえないものかもしれない。しかし、書き手の思いの細々としたところをストレートに読み手に伝える文章であり、独特のリズムもいい。そのリズムは、単に語調だけではなく、押したり引いたりのリズムでもある。

 この文章は芸である。文章だから文才がどうのこうのと言ったほうがいいのかもしれないが、文章だけにとどまらない芸が書かせたものである。

 独り漫談の文章といってもいい。笑わせることが目的の漫談ではなく、最初にテーマを設定し、それを巡っての思考の拡散していく様子が楽しい。まるで、ほろ酔いの殿山泰司の話しっ振りを聞いているかのような気になる。苦笑しつつも、「そうだよな、さあ一杯」と言いたくなるような文章だ。

 別の例えをするなら、独りジャムセッションだな。こちらのほうが、ジャズが好きだったという殿山泰司の気に入るかもしれない。打々発止のジャムではなく、合間にウイスキーをちびちび呑みながら、ブルースコードで延々と続き、互いのプレーに盛り上がるタイプのジャムだ。

 例として幾つか引用しようと考えたが、止めた。29のエッセイで構成されており、どれも独特の味がそれぞれあっていいのだが、中でも「河原林の<悪党>」というのが印象深い。酔っ払いの意気、気分、自己嫌悪などが表現されている。

首相公選制と議員公選制

 「首相公選制にすべきだ」との議論が盛んだったことがある。密室で自民党の有力者らが決めた首相がアホで、それを議会が辞めさせることもできないという現実への苛立ちから、それなら直接選挙で首相を決めようと一定の支持があったようだ。

 どうすれば、見識のある有能な実行力のある人物が首相に選ばれるのか。

 現在は、有権者の直接投票で国会議員を選び、その議員が首相を選ぶという制度。言ってみれば議員公選制だが、選出された議員に対する評判はあまり高いものではないようだ。有権者のほうにも、各種のしがらみなどがあって国会議員選挙では選択の幅が狭められているとか、投票する選挙区ではろくな(失礼)候補がいないといった事情があるのかもしれないが、首相公選制にしたなら、見識のある有能な実行力のある人物が首相に選ばれる(有権者が選ぶ)というものでもあるまい。

 制度を制度に代えたからといって、有権者の意識が変わらなければ、首相公選制導入でも何も変わるまい。むしろ改革などと声高に言う連中にうまく利用されるだけーなんて気がするぞ。国会が形骸化せず機能していれば首相公選論は出て来なかったのではないか。

 首相公選制導入より現在の公選された議員がしっかりすることのほうが現状を改革する近道だ。自民党を例にとると、総裁選を改革し、派閥力学ではなく、見識のある有能な実行力のある人物が総裁に選ばれるような政党になり、各党のそうした見識のある有能な実行力のある候補が首相の座を争うということになれば、首相公選制導入の意味はなくなろう。

 こう書いてくると、首相公選制も現実味のない話だが、公選された議員がしっかりすると期待するのも、同じような現実味のない話に思えてくる。