望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

オウムと日本社会

 こんなコラムを2000年に書いていました。

 教団本部的に使用していた横浜支部からの立ち退きを求められていた上祐氏らオウム幹部がどこぞへ移転したという。あっちへ行っても、こっちに来ても「オウム出て行け」の大合唱で、ここは人権派の出番、「オウム信者にも人権はある」なんぞと弁護する人が出て来るに違いないと思っていたら、オウム憎しの声の前には全く無力、せいぜいが信者の子供の就学問題に触れる程度。(無差別)殺人者には救いはないのかというのは、また別問題、それこそ宗教の問題だろう。

 オウムと日本社会を見ていて、日本と国際社会の関係が頭に浮かんだ。

「おまえらは、あんなに酷いことをしておきながら、きちんと反省もせず、謝罪もしていないじゃないか」という心情にプラスして、オウム側が一連の犯罪行為の事実関係を明らかにしようとせず、説明もせずにいるところから来る「また、何かやるのではないか」との疑いが、オウムを見る目には込められている。

 オウム側としては、尊師なる絶対の存在を否定できない限り、一連の事件の解明にも謝罪にも踏み出せまい。事件に関与していたと尊師を批判することは、教団の存在に関わることであろうから、その尊師が明確なことを言わない以上は、教団として肯定も否定もできず、「これからは、おとなしく迷惑をかけないようにやりますから、受け入れて下さい」と言うしかないというところか。

 ここでオウムと日本を置き換えると、何やら類似点が浮かんでくる。

 50年以上前の戦争の影を払拭できない日本。「不幸な過去がありました。あんなことは、もうしません」と日本が言っても、国際社会は日本に対する疑いを捨てきれない。「尊師」の号令でまた戦争に動くのじゃないかと。一連の日本の戦争行為について、事実はどうだったのかという客観的な検証さえ、未だに国家として行っていないじゃないかと。反省も謝罪も十分に行っていないじゃないかと。そんな目で見られている。