望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

転向する世代

 『渡邉恒雄 メディアと権力』(魚住昭著)が講談社文庫に2003年に入ったときに、魚住氏と玉木正之氏の対談が付け加えられた。その中に次のような一節がある。

魚住「いま起きていることって、世代論で簡単に言うと団塊の世代の転向現象なんですよね。(中略)団塊の世代、反権力をあれだけ若いころ言ってた人たちが、いま、ものすごく権力的になっているという状況なんです」

玉木「まだ革命という言葉を心の底のどこかにもっている人たち、ある意味でナベツネさんの思考性に非常によく似た人たちが団塊の世代にはいるんじゃないか。その人たちが今、組織の上の方にいてナベツネ的なるものと結びつく」

(中略)
魚住「みんな、かつての志を忘れていますよ。じゃ、なぜ彼らは志を忘れたか。ひとつは自分の保身。ひとつは、かつて彼らが抱いた志みたいなものが、嘘だったんですね。嘘というか」

玉木「ムードだった」

魚住「そう。だから、自分たちがある程度部下をもって、ある種組織の上のほうになっていくと、そこの部分がもろに出てきて、すごく権力的なことをやりだす。かつてもっていた理想みたいなものは、もうきれいさっぱり忘れてしまうという状況が、蔓延してるんじゃないですか」

玉木「ある意味でナベツネという人も転向した人という言い方ができると思います。彼を第一次転向者とすると、何世代か後の第二次転向者=団塊の世代が、合体して動いている感じですね」

 日の丸・君が代強制法に始まり、ガイドライン有事法制、おまけに盗聴法やら総背番号法など公明党の後押しもあって国会で簡単に成立したが、それらを容認する社会的雰囲気の根にあるものが団塊の世代の転向だったか。

 団塊の世代の転向って言い方をすると、何か思想的なもののような気もするが、勿体ぶらずにはっきり言うと、かつて彼らが批判した反動に団塊の世代がなったということ。

最強の武器

 軍事優先の北朝鮮の核爆弾が、周辺国にとっての現実的脅威となるためには運搬手段が確保されていることが必要だ。しかし、戦闘機などに装填できるほどの小型化能力は北朝鮮にはまだない。そうなるとミサイルということになり、北朝鮮は各種のミサイルの開発に熱心だ。

 北朝鮮が核爆弾を使用したなら、その時はアメリカと全面戦争になる(なっている)可能性が高い。北朝鮮核兵器を使えば当然、アメリカも使う。北朝鮮が核を使用した時が北朝鮮の敗北、崩壊の時である。つまり核爆弾は北朝鮮の体制維持には役立たない。

 北朝鮮はなぜ核爆弾を持つか。一つには、先制攻撃用ではなく防衛用。「攻められたら核で反撃するぞ」との身構え。二つには、交渉用。核を持つことで「アメリカと対等の立場になれる」と考えている。三つには、イメージシンボル。経済的にも国際政治的にも韓国に大きく後れをとったが、核保有により軍事的には韓国を上回っているとのイメージが形成できる。

 現在の北朝鮮の最優先課題は体制維持である。経済が疲弊し、人々が餓えている。だからこそ強固に体制維持をしなければ、金一族とそれを支える支配層の特権は維持できない。

 北朝鮮が核爆弾を保有したとして、それは「使えない兵器」である。それを分かっていながら韓国、日本、米国が北朝鮮と交渉を求めるのはなぜか。それは、核爆弾以上の現実的脅威が北朝鮮にはあるからだ。それは、北朝鮮体制崩壊

 二千数百万人の多くが餓えている国が崩壊したなら、人々を救うために韓国を中心に日本、中国などは巨額の支援をせざるを得まい。また、人々が支援が届くのを静かに待って北朝鮮の国内にとどまっているーはずもなく、韓国や中国など周辺国に逃れ出てくる。周辺国の経済的負担は膨大である。

 つまり、北朝鮮の現実的な最強の“武器”は核などではなく、皮肉にも北朝鮮自身の体制崩壊なのである。

個別と全体の混同

 SNSには大量の書き込みが流れ続けている。発信者は企業や団体なども多くなったが、おそらく大半は個人によるものだろう。個人によって発信された書き込みは個人の見解を示すもので、個別の事例であり、社会の全体的な傾向を示すものではない。ある個人の見解を一般的な事例だと見なすのは適当ではないだろう。

 SNS上の個人の書き込みを社会の傾向や世論を現すものとして、引用して論じる文章が珍しくない。それらは自説を都合よく補強する材料としてSNS上の個人の書き込みを利用するのだが、報道機関の記事にもSNS上の個人の書き込みを引用して記事の趣旨を補強している例がある。以前なら人々に取材して個別の見解を拾ったが、取材の手間を省いてSNSを「活用」して記事を仕上げていると見える。

 ある個人の書き込みが社会全体の傾向を示すと判断するためには、その見解が社会の多数派であることや、少なくとも過半数をその見解が代表していることを示す必要がある。統計的な処理が欠かせないのだが、手間を省くために安易にSNS上の書き込みを引用するのだから、そんな手間をかけるはずもない。

 個別の見解と世論とされる見解は、一致することもあれば一致しないこともある。SNS上の書き込みを引用する場合には、個別の見解か世論を代表する見解かを区別する必要があるが、そこらを曖昧にすることでSNS上の書き込みの安易な引用は成立する。個別と全体をうっかり混同すると、歪んだ認識を持つことにつながりやすい。

 よく見かけるのは、中国や韓国などの反日的な雰囲気を紹介する文章や記事に、中国や韓国における反日的なSNS上のコメントを引用することだ。それらのコメントが一般的なものか少数なのかを読み手が判断することは困難で、反日的な雰囲気が中国や韓国の社会に蔓延しているなどと受け止めたりする。

 また、SNSに流れる大量の書き込みは、書き手の素性の判別が困難なことが多い。誰とも分からぬコメントに対して一生懸命に批判を返す書き込みも珍しくないが、SNSという空間だから可能になる現象だ。さらに、外国勢力が日本の世論の分断、混乱、不一致を拡大する目的で日本国内の個人を装っている可能性もあり、意図的に「ひどい」書き込みで荒らしている可能性がある。匿名性は武器になる。

 個人の見解の安易な活用は、テレビのニュース映像における街角の人々のコメントの利用にも見られる。それらのコメントも個人の見解であり、世論を示すものとは限らないが、ニュース映像に組み込まれると、社会の代表的な反応を取材したかのような印象を与える。放映前に編集作業が行われるので、視聴者が特定の方向に誘導される可能性も否定できない。個人の感想を紹介して、それが全体の傾向を現すものであると装うことは以前の通販番組などで使われた手法だが、現在は、個人の見解であると明記しなければならないと法規制された。

死人相手のビジネス

 例えば東京の浅草界隈を歩くと、そこここに寺がある。ゆったりした敷地に構えている寺はなく、ほとんどは寺本体ぎりぎりまでマンションなどが建っている。地方では、ゆったりした敷地の一郭を駐車場にしたり、保育園などにしている寺も珍しくはないが、浅草では、都内ということもあってか大半がマンションだ。

 寺は何のためにあるのか。葬式、法事……死人相手のビジネスだ。生きている人間を相手にするのは観光名所になっているところぐらいか。拝観料が入るしね。寺が全て拝金主義というわけではなく、定期的にお説教などを行っているところもあり、悩み事の相談に応じているところもあろう。だが、寺の一般的イメージを変えるほど、多くの寺が現実社会ー生きている人々に働きかけているとは見えない。

 仏教が現在のように、その時の政治に無害なものになったのは、江戸時代の寺社管理が有効で現在もその枠組みを引きずっていること、つまり檀家を掴まえていれば坊さんは食うに困らないから“余計なこと”をしなくなったからだろう。坊さん連中が骨抜きになったのは、いわゆる信仰心(あったとして)が現世利益に負けたからだといえる。

 仏教における信仰心とは何か。そもそも仏教は何を目指した宗教なのか。生きることの様々な苦しみ、悩み、それらから解き放たれ、心の平安を得ることーであれば、世の中の動きとは無関係に個人の心の中だけに仏教はあればいいことになる。衆生済度なんて言葉もあるから、生きている人々への関心を仏教は持っていたのだろうが、現在の仏教のイメージからは、例えば世直しのために何か役に立つ宗教とはとても思えない。

 世直しといった大風呂敷を広げなくとも、例えばホームレスの生存を支援するためにお寺さんが活動しているという話も聞かない。ホームレスの人々に、仕事の世話などはできまいが、握り飯1個でも差し出したとか、お堂の片隅に泊めてあげたとかの話も聞かない。行き倒れれば、おそらく行政から要請されてお経の一つくらいはあげてやるのだろうが。

反テロリズムの意味

 イラクを例にとると、イラク国民とされる人々が一つの国家を形成する理由(必然性)は希薄である。民族も宗教も異なる人々が、例えば何かの理念なりに拠って統一国家を形成したわけではない。中近東は欧州の植民地にされ、第2次大戦後に独立したが、植民地の境界線が国境となった。

 植民地から独立したということでは例えばフィリピンも同様。フィリピンにも植民地化される以前には統一国家はなかった。フィリピン人がフィリピン人としての意識が強まったのは、おそらくマルコスを倒した時が初めてだろう。しかし、イラクにはそうしたイラク人としての自己意識を共有する自らの力による国家形成という体験はない。

 なぜイラクが一つの国家であらねばならないのか。その理由はイラクの人々の中には、ない。イラククルド人の独立を認めるとトルコのクルド人にも影響があるとか、南部のシーア派が分離独立するとイランの影響力が強まるなどの理由で、欧米がイラクを現在の国境の中に押し込める。

 冷戦期には、欧州内の国境を変更しないという東西の暗黙の了解の下に均衡は保たれてきた。冷戦終了後、東ドイツは西ドイツに吸収され、チェコスロバキアユーゴスラビアはそれぞれ解体し、欧州では国境線は住民の意思により変更され、それを欧米諸国は認めた。しかし、中近東を始めとして旧植民地の境界線を国境線としている国々については、東チモールを例外として、国境線の変更は認められない。誰が認めないかというと、欧米である。

 一方では、旧植民地からそのまま独立国家を形成した国々での反政府活動が活発化しているという話はあまり聞かない。旧植民地から成立した“不自然”な国家を欧米が支え、特に米国への反感にそれらの反政府活動の矛先が向いている。つまり、“不自然”な国家に対する民族自決、独立要求が反米運動と混在している。

 9.11以降、反テロリズムは誰も反対することのできない命題とされた。反テロリズムアメリカの被害者意識から強く打ちだされたものではあるが、世界各地の独立運動を押さえつけるためにはアメリカにも欧州にも好都合のものである。

 武力を使わずに独立を達成できる人々は世界のどこにもいないだろう。反テロリズムへの批判が許されない世界で現在、自らの国家を持っていない人々にできる抵抗(対応)は、欧米が決めた境界線を越えること、つまり合法であれ非合法であれ、行きたいところに行って住むことである。

人生はジグソーパズル

 ある友人は「人生はジグソーパズルだ」と主張する。「1日を生きると、その日のピースが出来あがる。毎日の様々な色をした膨大なピースが組み合わされて、大きな絵となる。その絵は、その人の人生が描かれた作品だ」とする。生きている間は毎日、ピースが加え続けられ、死とともに個人のジグソーパズルは完成すると言う。

 友人の説によると、ピースは正方形の形だが、色合いは人によって日によって多彩に変化し、同じものは2つとなく、大きさは人によって日によって異なり、大小の差は大きいという。何か大きな出来事があったり、印象に残る何かがあった日のピースは大きくなり、平穏な1日で、すぐに忘れられるような日のピースは小さい。

 何も起きず単調な毎日の繰り返しであっても、ピースは同じ色にはならない。天候は変化し、季節も変化するので人が見る風景は都会であっても毎日変化しており、日本や世界で様々な出来事が毎日報じられ、それらの情報を人は様々に受け取り、関心を持ったり記憶するので、その日のピースの色合いは変わってくる。

 完成したジグソーパズルは人によって多彩な形になる。全体が長方形や正方形など規則性がある形になることはほぼなく、ある部分は突き出し、ある部分はへこむなど人の数だけ形が変化する。大小様々なピースが連なり、外周は凸凹とした線の不規則なジグソーパズルが出来あがる。同じ形がないのは、同じ人生を送る人がいないためだ。

 生まれた日にその人の最初の1つのピースが出来あがり、その後は毎日、1つずつピースが加わる。ピースは正方形なので、形成されつつあるジグソーパズルのどこに加えられてもよいが、どこにピースが付け加えられるかは人によって日によって異なる。同じような色のピースでも接続する場所が異なれば絵の表現は変わってくる。

 「あの時に、ああすれば自分の人生は変わっていた」などと人は回顧して夢想するが、毎日のピースが加えられて形成され続けるジグソーパズルから過去のピースを取り外すことはできない。最初のピースが置かれて、完成形がどうなるか無限の可能性の中から人は毎日、1つずつピースを加えて、それぞれのジグソーパズルを完成させるのだ。

 最後の日のピースが加えられて完成する人生のジグソーパズル。「俺のジグソーパズルがどんなものか見てみたいな。上下左右にバランスが取れた人生ではなかったから、俺のジグソーパズルはきっと歪な形だ」と友人。「好きなことだけやって生きてきたように他人には見えるだろうけど、俺なりに筋を通して生きてきたんだから、色調は整っているはずだ」と言う。

N氏の憂うつ

 こんなコラムを2003年に書いていました。

「総理大臣にもなった。勲章も一番いいのをもらった。大新聞社のワンマン社長とも友達だ。息子も国会議員にして跡を継がせた。自民党の比例の終身1位だから、当選は保証されている。私の人生は大成功だ。何よりも、金のことではいろいろ噂されたが、1度も逮捕されずに済ますことができた」

「私の人生には不満はない。いや、違う。ある。憲法だ。負けた日本を占領したアメリカに押し付けられた“自由と民主主義”の憲法なんか、日本の伝統からはずれている。日本はやはり、天皇が君臨して、エリート官僚が一切を決め、国民は従い、強い軍隊をもち、その軍隊がアジアに睨みをきかすーーそれこそが日本の伝統だ」

「それと教育基本法の改正だ。天皇を敬い、愛国心を子供らにたたき込むことが必要だ。自由だの平等だのは必要ない。全ての子供に、自分で自由に判断する能力なんて必要ない。命じられたことをきちんとやるように育てれば、それでいいのだ。大人になってからも、天皇を敬い、愛国心を持ち、国家に求められれば命も捧げる。そんな美しい日本人に育たなかった奴等は警察や特別警察がびしびし取り締まって、秩序の保たれた美しい日本をもう一度取り戻す」

「そのためにも私にはまだ、やることが残っている。80歳をとうに過ぎたが、私の道はまだ半ばだ。憲法を改正しなければ死んでも死にきれん。やり方はわかった。君が代法制化の時のように、ソフトに、皆さんの生活には何の変化もありませんよと進める。法律ができてしまえば、運用でどうにでもできる。強制しないとは言っても、あと何年かすれば、日本中の学校は日の丸を仰ぎ見て君が代を歌う子供でいっぱいになる。そう進めたのだから」

憲法だって同じだ。自由も民主主義も平和主義も尊重しますと言っておけばいい。ただ、アメリカの押し付けではない日本人自身の手による憲法にするだけですと、日本人だとのプライドをくすぐればいい。憲法だって改正してしまえば、現在のように解釈でどうにでもできる」

「その私が議員を何故やめなければならないのか。あと一息で憲法教育基本法も改正できそうだというのに、無念だ。だいたい日本の軍備増強の道を開いたのは私だ。日本の置かれている状況から、アメリカ軍の指揮下を脱しての軍備増強は不可能だと見て、アメリカ軍とのつながりを強めることによって日本軍の増強も可能になった。不沈空母という言葉が有名になったが、誰から見て日本が不沈空母と言えるのか。アメリカにとっての不沈空母であるからこそ、日本の軍備増強が可能となったのだ」

「今の総理は、私がつくったアメリカべったり路線の良き後継者だ。逆らわなければアメリカは大目に見てくれる。軍備増強だって弱肉強食の経済だって、アメリカを出し抜かなければ、ある程度は自由にできる。腹の底で何を考えていようと、大親友ですとアメリカにべったり従っていればいいのだ。そこら辺のやり方は私が今の総理に教えてやった。しかし、彼は私に従うように振る舞いながら、今になって私を見捨てるとは思わなかった。悔しいが私の道は塞がれた。憲法が改正されたとしても私の功績にならないのが、悔しくてならない」

「ただ心配なのは、今の総理が私を見捨てたように、ある日、アメリカに対しても態度を変えてしまうのではないかということだ。今の総理が失脚させられるくらいならいいが、せっかくの憲法改正のムードとともにアメリカにつぶされやしまいかと心配になる。そうか。その時こそ私の出番だ。アメリカの大親友を演じた私だ。アメリカが許す範囲での憲法改正を進めることこそ私の使命だ。選挙なんかに無駄なエネルギーを取られずに済むのだから、憲法改正に焦点を絞り、私の生きている内に憲法改正を実現させる。……議員でなくたって、頑張れる、はずだ」