望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

中国の背反

 中国は習近平1強体制になり、共産党独裁体制から個人独裁体制に移行しつつあるようだ。労働者階級の独裁を正当化する共産主義の落とし穴は、労働者階級の前衛としての共産党の独裁につながることで、さらに共産党の独裁は指導部の独裁につながり、指導部を掌握したトップの個人独裁につながる。習近平氏の個人独裁は共産主義に起因する。

 労働者階級の独裁の結果が共産党独裁といっても、膨大な人々が労働者階級の代弁者として共産党を選挙で選んで権力を委ねたわけではない。共産党が労働者階級を代表するというのは、共産党の主張に過ぎない。勝手に共産党が労働者階級を代表していると自称しているだけだ。共産党独裁の結果として幹部党員が特権階級化した。それが中国の現実であるのだから、労働者階級の解放は夢物語でしかなかった。

 習近平氏の独裁体制が強固になるのと比例して、国際社会に対する中国の自己主張が強まっている。国際社会で自己主張するのは各国の権利であり、否定されるべきものではないが、中国の自己主張は①独善的すぎる(中国の無謬性を主張)、②批判には強く反発する、③成長を続ける経済力により融資や援助などを活用するーなどが特徴だ。国際社会においても中国共産党の絶対的な指導的立場を主張しているように映る。

 中国国内における強権支配を国際社会でも広げることができれば中国共産党は世界の支配者になることができる。当面は米国との世界分割支配を目指しているのだろうが、世界では中国に対する風向きが変わった。米国が中国批判を強め、中国に擦り寄るばかりだった欧州も中国との関係を見直し始めた。中国共産党の自己主張が欧米主導の国際秩序に対する挑戦となっては、欧米が座視しているはずもない。

 中国は2001年にWTOに加盟し、経済的に世界に開かれた体制に移行するはずだった。多額の外資を呼び込んで欧米と同等の産業基盤を構築して「世界の輸出基地」として大幅な成長を続けた中国は社会主義市場経済を標榜し、経済は市場主義で世界に開くが政治は社会主義を堅持するとした。欧米は、それを黙認した。

 しかし、中国は経済を国際市場にリンクさせて輸出拡大を続けたが、中国国内市場への各国企業の自由な参入は制限するなど中国流の市場主義はいびつなままだ。米国や欧州の中国批判は、WTO加盟で中国は経済的に世界に開かれた市場になるとの約束が棚上げにされたままで、中国本位のグローバル化は進めるという経済面での不満から来たものだ。ウイグル族などの人権問題を提起しているので政治的な動きとも見えるが、それらは欧米の対中批判を正当化するための道具に過ぎないだろう。

 欧米などを含む国際市場にリンクすることで成長した中国だが、共産党は市場主義を中国基準で変質させた。「政治は中国流だが、経済は国際標準で」という約束を捨てた中国への不信が、米中対立や欧州の対中関係見直しとなって現れた。国際社会に対する中国の背反が緊張を高めているのだが、強国になったとの自信から中国共産党は自己主張をさらに強硬に行っていきそうだ。かくして独裁政権は「毒」を国際社会に振り撒く。





「安宅クルーの再会」

 街中で、長くもなく短くもないという中途半端な時間をつぶす時などに立ち寄るのが書店だ。新刊書を扱う書店以外に古書店も、そんな時間つぶしには向いている。ひょっこり入った古書店で「この本、探していたんだ」という本を見つけた時は、入手できたことにプラスして、自分が運を持っているような気がして余計に嬉しくなる。



 ひょっこり入ったBOOKOFFでも、探していた本に出合うことができるが、BOOKOFFの面白さは100円(プラス消費税)均一の本の棚で、内容はよく知らないが、ちょっと興味を引かれたから買った本が、読んでみると「あたり」だったりすることだ。



 最近、そんな出合い方をしたのが「安宅クルーの再会」(読売新聞大阪社会部、角川文庫)。70年代末~80年代前半に新聞に掲載された連載記事4本(「生きるー死を急ぐ人たちのために」「安宅クルーの再会」「ある不起訴」「ポックリ寺の四季」)が収録されている。どれも印象深いリポートだ。編集局の黒田清社会部長の名から、そのころの記者らが黒田軍団と「尊称」されたのも理解できる。



 記事「安宅クルーの再会」は、つぶれた安宅産業のボート部員らが、それぞれに新しい仕事に奮闘しながら、1年後に集まってボートを漕ぐ。ボートは、漕ぐ皆が全力を出さなければ、まっすぐ進まない。ボート部員だった彼らが、会社がつぶれた時や新しい仕事に全力でぶつかっていた様子が描かれる。



 ボート部員で安宅崩壊後に起業した男が言う、「余儀なく動物園のオリを追い出された以上は、もう別のオリに入ろうなどと思わずにですな、自分で自分のエサを探して来る。それが、長い間忘れておった自分というものを取り戻すことになるかもしれん」との言葉が印象に残る。



 記事「ある不起訴」は、収賄容疑で逮捕された男が不起訴になっていたことを知った記者(逮捕された時に4段見出しの記事を書いた)が、なぜ不起訴になっていたのかを追跡取材したもの。シロだったのではないか、記事が間違っていたのではないかとの不安を秘めながら記者は取材を進める。不起訴の理由を各方面で追うほどに「真実」はぼやけて来る。言い換えるなら「真実」は一つではない。



 記事はそこで終わるが、「真実」が一つではないことは現実社会では、そう珍しくないだろう。一方で新聞記事は、「真実」を断定して書くのが基本。ネットなどで様々な視点からの情報発信が行われるようになった現在、新聞に対する批判が増えているのは、そんなところにも原因があるのかもしれない。



ドキュメント

 大事件が起きると新聞には、事件の発生から、その後の推移を客観的事実に絞って時系列で列記した「ドキュメント」記事が掲載される。記者の書く記事は、事件の多くの事実の中から何を取り上げるか、何に焦点を当てるか等によって違って来る。そこには、記者やデスクなどの主観(判断)が入り込む。そうした記事とのバランスをとって、事件の全体像を伝えるために「ドキュメント」がある。



 例えば福島第一原発事故では、3月11日の「午後3時42分 津波により非常用ディーゼル発電機が使用不能に。全交流電源を喪失」「午後4時36分 1、2号機で緊急炉心冷却装置の注水不能に」などと、起こったこと、分かったことを時系列でびっしり書く。このドキュメントは、後から事件を振り返る時に役に立つ。



 ただ、福島第一原発事故のように、次から次へと新たな事実が判明し、関係各組織の記者会見が続くようなケースばかりではない。事件が膠着状態になり、関係者の動きも止まったようになる場合、ドキュメントは短い記事にならざるを得ない。大事件ともなるとテレビ中継も入るが、動きのないドキュメントに読者の関心はあまり高くない。



 このドキュメントに新しい要素を加えて、読者の強い支持を得たのが読売新聞大阪社会部だ。1979年1月の三菱銀行北畠支店襲撃事件。行員を人質にして梅川昭美が立てこもり、動きが止まった。ドキュメント記事も短くならざるを得ない。ところが、ゲラ刷りを見た黒田社会部長が「動きがないというても、われわれ新聞記者は動いてるやないか。それを書け」。



 そうして、事件の推移に、多くの記者の動きや読者からの電話による声などを加えて、事件が巻き起こした様々な動きを列記したドキュメント記事が誕生した。そうした経緯を、事件の全容とともに描いたのが「ドキュメント新聞記者」(読売新聞大阪社会部、角川文庫、84年刊)だ。



 事件の取材には多くの記者が投入され、それぞれの記者が取材して、被害者の名前、襲撃犯の身元、現場の様子などをつかむ。それらの「断片」を組み合わせて記事がまとまり、紙面ができて行く。その様子も、事件の進行とともに、「ドキュメント新聞記者」は伝えている。



 ネット時代になって情報発信が多様化し、メディアが相対化されたこともあって、新聞への批判も増えているが、大事件における新聞記者の取材活動と記事が出来上がって行く様子を垣間みると、新聞も捨てたものではないという気になって来る。作り手の発想次第で紙面は活性化する。もちろん、現在の新聞記者が当時の大阪社会部と同質であるかどうかは、じっくり検証する必要はあるが。







サイバー戦争は持久戦争

 日本の企業や官庁などがサイバー攻撃の対象になったとの報道が増えた。サイバー攻撃も最近始まったものではない。以前から日本はサイバー攻撃の標的になっていたようだ。狙われやすいカモは餌食になるだけだ。



 サイバー攻撃と一括りにされ、企業や官庁の内部情報を盗み出そうとするものが多いように伝えられているが、ハッカーが腕試しを行っているものや、システムに「入口」を見つけて侵入することが目的(有事に備えて?)のものなども含まれている可能性がある。



 中国では網軍という組織が常時ネット監視を行い、サイバー部隊が活動しているといわれ、アメリカはサイバー司令部を設置し、実戦部隊を本格稼働させているという。ネット環境が整備され、各種の高度情報が豊富に存在する日本がサイバー戦争に巻き込まれるのは当然だろう。



 石原莞爾もサイバー戦争は予想していなかった。石原は「最終戦争論」(1940年の講演内容をもとに42年に出版)で戦闘隊形の発展を、個人対個人の戦いから集団対集団の戦いへ、さらには航空機の誕生で3次元対3次元の戦いへと変遷して来たとし、点と点の戦いから線と線の戦い、面と面の戦い、さらには空間と空間の戦いになったとした。



 石原はまた同書で戦争を、短期型で武力重視の決戦戦争と長期型で武力以外も重要な持久戦争に分類した。第二次世界大戦が決戦戦争であり、その後の冷戦を持久戦争と見るならば、第三次世界大戦は決戦戦争となり、凄まじい破壊がなされると予想できるが、その前にサイバー戦争が挟み込まれることになった。サイバー戦争は持久戦争である。



 既に軍事の世界にインターネットは組み込まれている。各部隊や戦闘車両、航空機、艦艇はもとより兵士個々もネットで繋がり、指揮・連絡のほか情報の共有などに活用されているという。平時に、敵国のサイバー空間の脆弱性をつかんでおくことは、有事にも役立つだろう。



 オープンな空間であることが魅力のサイバー空間。オープンであるが故の脆弱性は、「悪意」にはもろい。サイバー戦争が始まっているのなら、もう後戻りはできず、サイバー戦争に備えるしかない。ただし、サイバー攻撃に備えることを口実に、日本企業や官庁が「得意」な情報隠しに利用しないように監視が必要だろう。



供給過剰になったマスク

 出歩く時にマスクを着用することはマナーからルールになったようで、マスクを着用していない人を見かけることはほとんどない。とはいえ、鼻出しマスクの人は珍しくなく、あごマスクで口も鼻も覆わずにいる人も見かける。周囲に他の人が少なく、路上で密になることがないならマスクを外しても構わないだろうに。あごマスクの姿の大人からは、だらしなさが漂う。

 常にマスクを着用することに鬱陶しさを感じる人は多いだろうし、健康な人ならマスク着用を面倒くさいと思うだろう。パンデミック前はマスク着用が一般的ではなかった米国ではマスク着用を拒否する人が珍しくなく、マスク着用を求める店舗や交通機関などとトラブルになっているという。一方、ワクチン接種者が増えた国ではマスク着用の義務を緩和したところも増えている。

 マスクを着用する目的は飛沫感染を防ぐことだ。誰もが無症状の感染者だとみなして呼気に含まれているかもしれないウイルスの拡散を抑制する。ウイルスを吸い込まないためにマスクを着用するのではない(ウイルスを吸い込まないためには医療用マスクが必要。密閉度が高いから日常生活で着用していると息苦しいそうだ)。

 パンデミックが終息する気配はなく、マスク着用から人々が解放される見通しはつかない。機能からは不織布マスクがいいと専門家は推奨するが、人々が着用しているマスクはカラフルで、白い不織布マスクが圧倒的に多いとはいえない状況だ。様々な色でデザインも個性的なマスクが増えたが、それらの前面に折り目がないので不織布マスクではないだろう。

 パンデミックが始まった頃は店頭からマスクが消え、マスクを探して市中を探し回る人もいたという。そのマスクが現在、店頭に山積みになっている。マスクが再び出回り始めてからは30枚入りで2千円台などで売られていたのが、供給が回復するにつれて5百円台や4百円台になった。機能やファッション性を訴求する7枚入りで3百円台などもあるが、飛ぶように売れている様子は希薄だ。

 マスクであれば何でも売れたのは過去のこと。特色を出さなければ売れないとメーカーは、耳が痛くならないとか眼鏡が曇らない、着けていても涼しいとか様々な機能を加えたり、デザインに工夫を凝らしファッション性をアピールしたりする。個性をアピールしなければ選ばれなくなったのは、市場に商品が溢れている状態だ。参入企業が相次ぎ、中国からの輸入も増え、マスクは供給が需要を上回る状況になった。

 百円ショップでは、30枚入りで百円プラス消費税で売られていたマスクがパンデミックが始まると3枚で百円プラス消費税と値上がりしたが、やがて5枚で百円プラス消費税、7枚で百円プラス消費税、10枚で百円プラス消費税、15枚で百円プラス消費税と値下げが続き、最近になってパンデミック前の30枚入りで百円プラス消費税が復活した。店頭に山積みになっているマスクは、需要と供給を考察する格好の具体例だ。





除染からクーデター

 20XX年、茨城沖で発生した大きな地震によって、2011年の東日本大震災で損傷した福島第一原発の原子炉建屋が甚大な被害を被った。幸いに核燃料が大気に露出したり、飛散する事態は避けることができたが、建屋などに残っていた大量の放射性物資が大気中に放出され、東京にも飛来した。



 やがて霞ヶ関や赤坂、銀座などを含めて都内各地に高濃度のホットスポットが出現した。「直ちに人体に影響はない。落ち着いた対応を」と政府は呼びかけたが、不安は静まらなかった。まず各国大使館が東京から離れ、在京外国人も東京を離れ、企業にも緊急対策として東京から移転するところが現れた。人々も続々と東京を離れ始めた。



 「東京から移転する必要はない」とした政府方針により、東京を離れることができなかった霞ヶ関の官僚と、開期中の国会を離れることができない議員は政府に「早急な除染を」と強く求めた。これを受け政府は、東京の除染を最優先して早急に行うことを決め、自衛隊を4万人動員して、まず都心から除染作業を始めさせた。



 出動命令を受けて都心各地に展開した自衛隊は日中は除染作業を行い、夜間は各省庁の講堂等のほか、日比谷公園などにテントを設営して宿泊した。除染作業を始めて5日目の明け方、自動小銃などで武装した自衛隊の2万2千人が動き、総理官邸、各省庁、警察庁、携帯電話会社、放送局、新聞社などを占拠した。すべての電話が不通となり、テレビ、ラジオも停波し、新聞は届かなくなり、インターネットは遮断された。



 やがてNHKだけが放送を再開し、幹部自衛官が画面に現れ、「日本が未曾有の災害に見舞われている時に、政治家や官僚は東京で、くだらない小さなことや利権で争っているばかりだ。これでは日本が滅ぶ!」と叫び、「日本を救うために我々は立ち上がった」とクーデターを宣言した。彼らは憲法を停止し、国会を閉会させ、救国臨時内閣を組織した。



 ーー2.26事件の背後には、貧苦に苦しむ東北の人々の惨状があった。3.11以降の「惨状」とダブらせるには無理があろうが、こうも閉塞感が蔓延すると、行き着く先は怒りによる行動か?と想像してみました。






人口減少と移民

 2010年の国勢調査によると日本の総人口は1億2805万人だった(日本人の数は1億2535万人)。日本の総人口は江戸末期は3千万人台半ばだったが、明治に入ってから増え始め、特に20世紀になってからは顕著に増え、1900年4385万人、1925年5974万人、1950年8320万人、1975年1億1194万人と、この75年間の増加率は年平均1%を超えた。だが1975年~2004年の増加率は年平均0.5%弱と鈍化し、05年は0.05%まで少なくなった。



 出生率を見ると日本では終戦直後には4.5以上だったが、その後は減少傾向を続けた。2005年に1.26となった後は上昇傾向に転じ、2010年は1.39。ただ、自然増と自然減の境目は2.08ほどとされるので、このままでは日本の人口は減少して行くことになる。



 減少が続くと日本の総人口は、国立社会保障・人口問題研究所の推計では2022年に1億1千万人台になり、2042年には1億人を割り、2050年には9000万人も切るとしている(この推計は出生率を低位、死亡率を中位と仮定した場合。出生率が上がれば人口減少は緩やかになり、出生率を高位と仮定すると、1億人を割るのは2053年)。



 日本の総人口が減少すると様々な社会的変化が生じる。その一つに、高齢化もあって労働人口が減少するため、経済が縮小するとの懸念がある。それを避け、日本経済の活力を維持するために、欧米のように移民を受け入れて労働力の減少を防ぐべきであるとの主張がある。欧米メディアによく出ているようだ。



 難民等の受け入れが少ない日本は「閉ざした」国に見えるのであろうし、外国人が日本で就業することに制約が多いとするなら、日本はもっとオープンになり、世界から人材を受け入れるべきだろう。ただ、日本はオープンになるべきであるという視点と、日本の人口が減少していることを安易にダブらせて、移民を受け入れることが解決策だと言うのは皮相的な見方でしかない

。

 外から「補充」して総人口を減らさなければ日本経済の活力が維持できるかというと、そうとも言いきれない。自動車メーカーなど輸出型の日本企業は世界各地に工場を建設し、円高もあって日本国内での投資は控え気味。総人口が減り、労働人口が減っても、日本国内での雇用が減っているなら、移民受け入れを増やしても失業者を増やすだけになりかねない。



 ただ、移民により人口が増えて、内需が活発化する可能性はあるが、それは移民が就業できることが条件。日本がオープンにならざるを得ないなら、移民受け入れで活性化する分野=人手不足が顕著な分野をまず受け入れ先にするテがある。就業者が減り、後継者が少なく高齢化が進行している分野といえば農林漁業が代表だ。研修生制度は止めて、将来の担い手を世界から求めて育成する制度を構築して、人手不足の分野から移民を受け入れることは産業政策としてアリかもしれない。