望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

Go To ワクチン

 緊急事態宣言で落ち込んだ個人消費を刺激しようと政府は、飲食業を活性化させるために「Go To イート」事業、旅行業や観光産業を活性化させるために「Go To トラベル」事業を積極的に推進した。だが、再度の感染拡大に見舞われ、「Go To」事業は頓挫した。人々に出歩くことを奨励するのは時期尚早だった。

 「Go To」事業は大幅割引などで人々に利用を促すものだった。自粛生活を続けていたことからの解放感もあってか多くの人々が利用して一時は活況を見せたが、人々の接触機会を増やし、感染の再拡大につながった。政府は「Go To」事業と感染拡大の因果関係は証明されていないと、「Go To」事業への未練を隠さない。

 「Go To」事業には、政府の従来の施策とは少し異質な雰囲気が漂う。COVID-19によるパンデミックという未曾有の事態のなかで、停滞した消費を刺激して経済を活性化させようとする施策は前例がないものであるだろうから“平時”の施策と異なるのは当然かもしれない。だが、ネーミングや人々に直接働きかけて動かそうという手法などから立案に広告代理店などが絡んでいる気配を感じる。

 従来の施策は、官僚が立案して政府が実行するものだっただろう。東大などを優種な成績で卒業したキャリア官僚が時流に適した政策を立案し、与党が法案を議会で通し、政府が実行に移すが、全国でノンキャリア官僚がその実行を支えた。政治家の「質」のレベルは昔も今も大差なく特に優れたものではないだろうが、優秀な官僚群が政府の施策を支えていた。

 だが与野党問わず政治家による一連の官僚バッシングが行われ、官僚人事を政府(政治家)が掌握したことなどから官僚の士気が低下し、さらに長時間労働が嫌われて優秀な人材が集まらなくなり始めたという。これまで日本の施策を支えていた優秀な官僚が次第に少なくなる一方で、政治家の「質」のレベルは以前と同様に特に優れたものではないとすると、日本の政治がおかしくなるのは当然か。

 今回の「Go To」事業がどのように立案されたのか知らないが、官僚の立案能力が低下している中で、特に能力が優れてはいない政治家(政府)が官僚に加えて広告代理店やコンサルティング会社、政商まがいの評論家などにアイデアを求めて「Go To」事業が浮かび上がったと想像すると、「Go To」事業の妙に商業キャンペーンめいた雰囲気が納得できる。

 政治が人々に直接働きかける「Go To」事業の効果はあり、人々を動かすことに成功した。この経験を現在に活かすなら「Go To ワクチン」事業だ。ワクチンを摂取した人数を増やすことが感染拡大を抑制する唯一の現実的な対策だとすると、「Go To ワクチン」事業で人々のワクチン接種を増やすことが最優先の対策となる。ただし、「Go To ワクチン」事業が成立するにはワクチン供給が十分にあることが前提だ。申し込みは殺到するが、全てに応じることができない状況では「Go To ワクチン」事業は成立しない。

水戸黄門、どこへ行く

 42年間放映されていたテレビ時代劇「水戸黄門」が2011年で放映終了になり、黄門さまの旅が終わった。「いつも午後8時46分頃に印籠を出すんだ」などの話があり、そんなマンネリ時代劇が42年も続いた。マンネリ化すれば飽きられて、打ち切りになる……のが普通だろうに、42年も続いた。マンネリが「定番」としての安定感につながり、さらにマンネリも度を越すと、マンネリが強みに転化するのだろうか。



 不正を暴こうとする武士が襲われたり、農民・庶民が迫害を受けているのを、通りがかった黄門一行が助け、探って行くうちに、悪代官と越後屋が結託して私腹を肥やそうとしていることが判明、黄門一行が代官屋敷に乗り込んで大立ち回りの後、黄門が「もう、いいじゃろう」。そこで印籠が出て来る。



 印籠を見せる時の台詞はいつも同じだ。「ここにおわす方を何と心得る。先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。御老公の御前である。一同、頭が高い。控えおろう」。悪代官や越後屋は「しまった」という顔を見せてから平伏し、黄門一行に助けたもらっていた人々は「えっ、この爺さんが!」と驚愕した表情を見せてから平伏する。



 こうした展開が、土地を変えて、登場人物を変えて、毎回繰り返される。だから、途中から観ても話に入って行くことができる。誰が悪人で誰が善人なのかはすぐ分かるし、その後の展開も想像できる。でも、2時間ドラマの謎解きものだったなら、誰が悪人か、話の展開がどうなるかーなどが分かってしまえば、視聴者を引きつけ続けることはできまい。



 マンネリだからこそ「水戸黄門」は続いたのかもしれない。42年というと視聴者は2、3世代は入れ替わっている。時代劇映画になじんでいた世代が少なくなり、テレビで時代劇というとNHK大河ドラマしか観たことがない世代が多くなると、マンネリの強みが消え、マンネリが退屈なものとしか見えなくなって、飽きられたのかもしれない。



 黄門さまの旅は終わり、テレビから時代劇ドラマは消える。テレビのシナリオライターの主力は30~40代の女性だと聞いたことがあるが、おそらく時代劇(映画を含めて)作りの伝統みたいなものを継承していないんだろう。テレビから時代劇が消え、韓流ドラマが増殖するばかり。本を読む時間が増えるのはいいことかもしれないが。







大規模訓練を嗤う


 首都直下地震の発生確率が高いと報道された2012年、関東では防災商品の売れ行きが伸びたという。東日本大震災では関東もけっこう揺れたから人々に切実感があったんだろうな。でも、非常用食品などを買いためておけば安心かというと、それは分からない。「その時」に、どんな被災状況になるのか誰にも見えていないのだから。



 想定はある。中央防災会議は、東京湾北部を震源とするM7.3の地震が起こった場合(冬の夕方、風速15m)、建物被害は約85万棟(火災消失が65万棟、揺れによる全壊は15万棟など)、死者数は約1万1千人(火災による死者6200人、建物倒壊による死者3100人など)とした。これらの数字は、震源の位置、日時の設定等で大きく変化するので、目安でしかないが。



 そんな中で東京で大規模な帰宅困難者対策訓練が実施され、東京、新宿、池袋の各駅周辺で約2万人が参加して、伝言サービスでの家族との連絡や一次滞在施設への移動などを行った。一斉帰宅せずに地震発生直後は会社等にとどまることが重点という。東日本大震災では首都圏で500万人以上の帰宅困難者が出たことを受けて、次の地震の時には、人々がむやみに動かず、会社や各種施設で待機するように意識づけをすることが目的だったようだ。



 一次滞在施設等へは、参加者が交流サイトで検索して移動したそうだが、首都直下地震の発生時にも基地局等に損傷はなく、都内で携帯は機能するという想定らしい。さらに、駅周辺では火災が起きず、人が溢れたりもせず、駅や会社や一次滞在施設等の建物に損傷もなく、そこでは帰宅困難者が待機していられる状況ということらしい。「実際」の時もそうなら、いいが。



 直下地震に襲われた時に東京などは、どんな状況になるのだろうか。参考にするなら、阪神大震災の時の神戸だ。神戸では、木造住宅はつぶれ、各地で火災が発生し、傾いたり損壊したビルがそこここにあり、高速道路が倒れ、鉄道網は寸断された。地面には地割れが走り、道路にも瓦礫が散乱した。



 福島原発の事故では、想定外という言葉が持ち出され、「起きない」ものと最悪の事態から目をそらしていた原子力ムラの実態が明らかになった。首都直下地震の訓練だとしながら、携帯は使用できるし、火災も発生しないし、ビルや建物に損傷はなく、負傷者も出ておらず……などという想定での直下地震訓練にどれほどの意味があるのだろうか。東京都もやがて、想定外という言葉を使って自己弁護するのだろうか。



 直下地震であろうと何の地震であろうと首都圏が大きく揺れた場合、大量の帰宅困難者が発生するだろうから、備えや支援は必要だ。各地に一次滞在できる空間を確保し、食糧や水や情報提供網を確保しておくことも必要だろう。そうした対策と、甘い想定の訓練を実施することとを同列に見るわけにはいかない。帰宅困難者対策訓練は行政の、直下地震に対する危機感の緩さを示している。





変質した時代劇

 最近では時代劇映画は数少なくなり、テレビでも長寿番組「水戸黄門」が2011年で終了、時代劇を見かけることは少なくなった。時代劇というと侍が主役となり、様々な葛藤があって、最後はチャンバラでケリがつく構成が多いようだが、それだけではなかった。特に映画では人情物や世話物など時代劇が描く世界は幅広く、町人、農民らが主役の時代劇もあった。



 昔は時代劇の人気が高く、そのために時代劇で様々な人々を描いて来たのだろう。映画やテレビから時代劇が減ったのは、何でもかんでも時代劇の世界に押し込まなくても受け入れられるようになり、現代劇の世界が拡大したためかもしれない。時代劇は今や、侍の世界を描く時のみに使われる設定になったのかも。



 これは時代劇が「純化」されたともいえるが、時代劇が、幅広いドラマファン対象から時代劇ファンに向けて制作されるものに変化したともいえる。それは、視聴者が時代劇ファン中心に縮小したということでもある。



 一方で時代劇の魅力はチャンバラ=活劇であったが、現代劇でも暴力が登場し、SFではCGを駆使して圧巻の乱闘・戦闘シーン等が珍しくなくなった。CGを駆使したり、チャンバラをリアルにしたところで、時代劇ファンは増えるはずもない。立ち回りは時代劇の専売特許ではなくなった。それではと、侍を主役に忠義を描いたりしても、「個人を犠牲にしての忠義」に説明が必要な現代では、共感を得るのは簡単ではないだろう。



 時代劇の世界が縮小し、ファンも縮小したとあっては、時代劇が映画、テレビで少なくなるのは当然か。でも、時代劇の衰退を嘆く向きもいる。時代小説には根強い人気があるから、それらをドラマ化すれば時代劇は蘇りそうだが、実際には時代劇が減る一方の状況を見ると、そう単純なものではないらしい。



 テレビから時代劇が減ったのは、1)時代劇ファンは高齢者が多いのでスポンサーがつかない、2)制作コストが高いーのが原因だとの指摘がある。韓国では映画産業を国が支援しているから、日本でも時代劇を国が支援して、特殊な技能者集団でもある時代劇の制作スタッフを「保護」し、技術伝承を絶やすなという主張もあるようだ。



 でも、娯楽産業が国の「保護」を求めるようになってはオシマイだな。安易に韓国の真似をするより、現代の時代劇スターを誕生させる努力をすることのほうが、時代劇の活性化=時代劇ファン拡大に結びつこう。


一枝を折らば

 歌舞伎の「熊谷陣屋」で、源氏の武将の熊谷直実が主君・源義経から与えられた「一枝を折らば一指を切るべし」という桜の木の横に建てられた制札は、枝を折るなとの禁令だが、実は隠されたメッセージだった。それは敵の16歳の平敦盛を捕らえても殺さず、直実の16歳の子を身代わりに斬れとの意味だった。

 熊谷直実は苦しみつつ、敦盛を生かして自分の子どもの小次郎の首を討ち、首実験のために源義経が現れた時に直実は制札を引き抜き、義経に示しながら敦盛(実は自分の子どもの小次郎)の首を見せ、忠義を優先させて子への愛を抑圧した苦悩をにじませる。義経はその首を見て「敦盛の首に相違ない」という。

 現代の価値観では、主への忠義を優先させて我が子さえ殺すという設定は全く共感されないだろうし、許されもしないだろうが、そういう価値観が称揚される時代が過去にあり、また、そういう価値観が重視される時代があった(おそらく、そういう時代にあっても忠義のために親が子を殺すのは特異な出来事だっただろうし、忠義の優先は支配のためには便利だっただろう)。

 この「一枝を折らば一指を切るべし」という言葉を少し変えた「一枝を得らば一指を捨つべし」を心掛けている友人がいる。彼は、自分の衣類や家具、書籍、CD、電化製品など持ち物は必要なものだけを残して整理し、新たに何かを購入した時には、所有していた中から何かを処分することを基本にしている。

 所有物を増やさないという生き方は、消費社会に背を向けているようにも見えるが、「必要なものや欲しいものは買う。消費を否定しているのではなく、所有物を増やさないことが目的」と友人。流行りの断捨離に影響されたとも見えるが、彼はミニマリストと一括りにされることを拒み、家族には所有物の整理に同調することを求めていない。

 捨てることが目的ではなく、着ない衣類や読まない書籍、使わない家電など身の回りに澱のように溜まった品々を遠ざけたいのだと友人(大きな家ならば屋根裏か地下室にでも放り込んでおけばいいのだが)。使用されない品々が溜まることに対する一種の後ろめたさもあって、整理し、所有物を増やさないことにしたのだという。

 捨てる行為は、自分に本当に必要なものを明確にすることでもある。所有物を減らすと生活がシンプルになったと見えるようで、精神にもいい影響を及ぼすと友人は満足している。消費を我慢したり諦めたりせず、消費する快楽は維持しながら、しかし所有物を増やさない生活は選択を繰り返す生活であり、変化の渦中に居続ける生活に見える。

 熊谷直実源義経に暇乞いを願い出て許されると、墨染の衣をまとって我が子の死を嘆きつつ去っていく。その時に吐き出す言葉が「十六年は一昔、夢だ夢だ」。整理して捨てたモノに未練を残さないので友人には、失ったことを「夢だ」と嘆く品物はないという。





海氷が減ったが

 2012年の冬は寒かった。気象庁の発表(3月1日)によると、 この年の冬の特徴は、1)北日本から西日本にかけて12月、1月、2月と3カ月連続低温で、冬の平均気温が低かった、2)日本海側では平成18年豪雪に次ぐ積雪、3)沖縄・奄美での冬の日照時間は1946年以降最も少なかった。



 気象庁は異常気象分析検討会の分析結果を2月27日に発表しており、そこではこの冬の特徴を、1)ユーラシア大陸の中緯度帯で低温となり、カザフスタン、 モンゴル、中国北部では顕著な低温となり、1月後半~2月前半は中央アジアからヨーロッパにかけて顕著な寒波に見舞われた、2)北日本、東日本及び西日本で低温となり、寒気のピーク時には大雪となり、北日本から西日本の日本海側では最深積雪が多くの地点で平年を上回った、とした。



 さらに大気の流れについて、1)大西洋からユーラシア大陸にかけて偏西風の蛇行が大きくなった、2)シベリア高気圧の勢力が非常に強くなり、日本付近では強い冬型の気圧配置になった、3)日本付近で偏西風が南に蛇行し、強い寒気が流入した……とし、そうなった要因として、偏西風の蛇行にはラニーニュ現象の影響を挙げるとともに、 北極海バレンツ海付近の少ない海氷が関連してシベリア高気圧が強まった可能性を指摘した。



 日本付近で偏西風が南に蛇行したから、強いシベリア高気圧がもたらす寒波が日本列島にも届いたという説明は以前の冬にも耳にしたことがあるが、北極海の海氷減少と寒波を関連させたのは目新しい。でも、北極海の海氷の減少は以前から指摘されていたことであり、この冬に始まったことではない。なぜ、この冬にだけシベリア高気圧に影響を与えたのか因果関係がはっきりしない。



 専門家の中には、1)北極海氷が大きく減少すると大気循環に変化が起き、その影響で、北極周辺から南に移動する寒気団が勢力を増し、範囲も南方向に拡大、2)海氷が融解して海水面積が広がると、より多くの水蒸気が大気中に放出され、水蒸気が広範囲に拡大した寒気により冷やされ、地上に大量の雪が降る、との説を主張する人もいる。



 ただ、これは仮説の段階でしかない。北極海の海氷が減ったことで大気中に含まれる水分が増え、その水分が雪をもたらしたという説は素人にも分かりやすいが、単純すぎないかな。海氷の減少量、大気中の水分増加量の変化を数値で出し、増えたという大気中の水分が、どこにどれだけ雪として降ったのか、客観的な説明は専門家にもまだ、できないだろう。



 地球規模で常に変化している気候現象のメカニズムを解明することは、膨大なデータの収集・分析が必要であり、複雑極まる。単純化してとらえることは、袋小路に陥った時などに、全体を見直すために有効なのだろうが、仮説に過ぎないものが一人歩きしているような利用のされ方を見ていると、きちんとした検証がスルーされかねない弊害の大きさの方が目立ってしまう。



小言幸兵衛

 え~、落語に「小言幸兵衛」という噺がありましてな。麻布古川の長屋の家主、幸兵衛さん、細かいことにうるさく、長屋を回って、いつも小言を言って歩くので、ついたアダ名が小言幸兵衛。相手がいないと犬や猫、天気にまで小言を言うというんですから、離れて見てる分には笑えるんでしょうがね、近くにいて、こっちにも小言が向けられようなら迷惑というか厄介というか。



 「世に盗人の種は尽きまじ」と詠んだのは五右衛門だそうですがね、世の中から小言のタネも尽きそうにありません。だから、いつの時代にも小言をうるさく言う人はいたんでしょうが、現代の小言幸兵衛といえばマスコミですかね。あっちに向けても、こっちに向けても小言……いや批判を放ちましてね、小気味よく見えたり、頼もしく見えたりすることもあるんですが、心配もありましてね。



 マスコミは批判を放っているつもりが、相手側に聞く気がなくて、せっかくの批判も相手には小言としか届かない……なんてことがありそうな気がしましてね。そうなると、マスコミが何を言っても効果がない……と勘違いする輩や、うるさいマスコミの弱体化の好機だと、マスコミの影響力低下に利用する連中が出てきそうで。



 批判と小言の違いは、受け止める側が決めることでしょうな。批判されて真摯に反省するなんて御仁はそう、どこにでも居るわけではないでしょうから、マスコミに批判されても、「小言を食らっちゃったよ」と受け流してケリをつけたつもり。マスコミのほうも、批判はしたんだから「責任」は果たしたと、別の批判に向かったりしましてね。



 そんなマスコミが、皆がネットを使う時代となり、情報の入手経路が多様化したこともあって、批判の対象となることが増えましたな。政治家や官僚や大企業などを批判して来たマスコミだから、批判には真摯に対応するかといえば、そうとも限らない。うるさい小言が増えた……なんて思ってはいないでしょうが。