望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ユダヤ人と宗教

 民族の定義は複雑だ。辞書では「言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団」「言語・宗教・生活慣習など文化的な共通意識を持っている人々の集団」などとなるが、例えば、中国人とは民族ではなく中国国家に帰属する人々のことで、ユダヤ人とはユダヤ教の信者のことで共に民族ではないという説がある。

 国際政治の分野では「自決権を行使できると見なされる人間の集団の単位」という意味でnationが使われている場合、これを「民族」と訳してきたが、社会学文化人類学政治学の分野では、自決権の行使とは必ずしも関わりを持たない社会的集団を意味するethnic group、society、community、tribeの翻訳語のとして「民族」が使われてきた(アジア経済研究所HP)。

 本質論では、血縁・性・身体的特性・社会的出自・言語・慣習など人にあらかじめ与えられたもの、自分の意思では変えられないもの、外から見て明らかなもの(客観的な属性)が集団を確定するとする。構築論では、集団は人々が他の集団との相互作用の過程で選択的に形成するものであり、目的にあわせて自分である程度自由に選び取れるものとし、外から見て必ずしも明らかでない帰属意識など(主観的な属性)が集団の確定に重要だと考える(同)。

 主観的な帰属意識などを重視する構築論からすると、ユダヤ教を信じるユダヤ人という存在への帰属意識民族意識につながることがあるならユダヤ人は民族として成立することになる。キリスト教イスラム教など特定の宗教への帰属意識民族意識の形成に必ず結びつくものではないが、ユダヤ教の場合は信者が世界的に見て少数の集団に限られていることが信者=民族との解釈を招いた。

 ユダヤ人がローマ帝国に追放されたということを記録した信頼できる歴史的資料はなく、今のユダヤ人の祖先は世界各地でユダヤ教に改宗した人々であって、古代ユダヤ人の大部分はそのまま残り、その子孫は実は今のパレスチナ人だと説いたのはシュロモー・サンド氏。2008年に『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』がイスラエルでベストセラーになり、各国語に翻訳された。

 サンド氏の主張は、ユダヤ人が祖先の土地に戻るというシオニズム運動の根本を否定するものであり、ユダヤ人が世界各地から戻ってきて建国したイスラエルという国家の建国の正当性にも疑念を投げかけるものだ。サンド氏は、イスラエルパレスチナ人を含む全市民に平等な権利を与える民主国家を目指すべきだとする。

 ユダヤ人の離散(ディアスポラ)を事実とし、欧州などで過酷な体験をしたユダヤ人に対する欧米諸国の同情と贖罪意識が、祖先の土地に戻るというシオニズム運動の容認につながり、イスラエルが建国された。信心深い人々がユダヤ人であるはずだが、今のイスラエルから伝わってくるのは「敵」に対する容赦のない無慈悲な攻撃姿勢だけだ。神に救いを求めても無駄だと見限った人々にとって、宗教は現世のことには関わらないものらしい。