望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

意思疎通に障害

 外国語のカタカナ表記の増殖が止まらないのは、第一に米国などからの新しい概念の流入が増殖している、第二に、そうした新しい概念などを適切な日本語に翻訳する人が減ったーためだろうが、概念規定が曖昧なままで言葉を使う人が多いことも影響している。曖昧なままで済ますのは、意思疎通が雑であることを示す。

 外国語のカタカナ表記の氾濫の弊害は①言葉の意味が曖昧になり、②言葉の理解の共有がおざなりになるーことだ。言葉の理解の共有ができていない状況は、各自が一方的な主張を述べている状況と似る。つまりコミュニケーション(意思疎通)が上辺だけで、成り立っていない。これは、外国語のカタカナ表記を多用する人は一方的な主張を述べているだけだということを示す。

 外国語のカタカナ表記の氾濫を厳しく批判していた加藤周一氏の言葉を引用する(「<漢字文化圏>の歴史と未来=一海知義氏との対談。2000年。加藤周一対話集④所収。一部修正あり)。

「日本に入っている漢語は、大部分は古典中国語と同じ意味です。母国語は外国語と違うから、外国語で意味がわかったなんて言っているよりも、日本語そのものですから、わかり方が全然違う」
明治維新のころ、中江兆民はフランスから帰ってきて仏学塾をつくったのですが、彼は塾生に漢学を必須科目にした。中江兆民の考え方は、日本人は考えるときに日本語で考える、日本語のかなりの部分は漢語なので、その自国語の能力をきちんとしなければ、文化的な自己の確立が揺らぐ」
「フランス語を訳そうとすると、どうしても日本語能力が問われる。明治の初期の日本は欧米文献の翻訳時代です。それには二つの能力、外国語を理解する能力と、それを自国語で表現する能力が必要だということを彼は見抜いた」

 漢語の省略性について「たとえば電算機と書けば、電は電気に関係があり、算は計算することに関係があり、機は機械だからと、はじめて見ても、およその見当はわかってしまう。コンピュータでは英語を知らない人にはわからない。カタカナにすると、類推のしようがなく、個別的に一々覚えなければならない」 

 強権国家では人々は、保身や身の安全のために権力に逆らうことを控える。そうした社会では人々は、権力に従ったり迎合するために権力の指示を受け入れるだけなので、権力が発する言葉を無批判に受け入れるだけだ。日本における外国語のカタカナ表記の氾濫はいささか事情を異にするが、人々の相互理解を軽んじていることでは似ている。