自分探しとは「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して、新しい自分の生き方、居場所を求めること」とされる。自分とは何か。それが分からなかったり混乱しているから探すのだろうが、自分を見つけたと判断するのは自分であり、探している自分を見つけることができるのは自分だけ。それまでの自分と新しい自分がどう違うのか、見分けることができるのも自分だ。
自分を見つけたと見分けて判断するのは、その人の主観である。客観的に自分を定義している人は少ないだろうし、客観的に自分を定義できるなら自分探しをする必要はない。定義できず、ぼやけている自分に満足できないから自分探しを始めるのだろう。自分探しは、それまでの自分に不満を持ったり、それまでの自分を否定したりすることで成り立つ行為だ。
自分探しをするのは、それまでの自分と違った新しい自分があると信じるからだろう。だが、それまでの自分と違った新しい自分などというものが存在せず、存在するのは、それまでの自分でしかないのなら、いくら自分探しを続けても、新しい自分を見つけることはできない。「ない」ものは探しても見つからないから、自分探しという行為が続く。新しい自分とは、気持ちがリフレッシュされた自分かもしれない。
新しい自分とは、自分が高く評価するに値する自分でもある。判断や評価は当人の主観で行われるので、その基準は簡単に変動する。だから、気分次第で新しい自分が見つかる(=見つかったという気分になる)。例えば、日常から離れて初めての土地に行ったりして環境が変わると、気分がリフレッシュされ、前向きの評価をしやすくなり、新しい自分がいるようにも感じることは珍しくない。
自分探しは、「現在」の「ここ」に存在する自分ではなくて、どこかに存在するに違いない新しい自分を探すのだが、探すという行為は、①確かに存在するものを探す、②存在が不確かなものを探すーに分かれる。自分探しは、新しい自分が存在するはずだとの思いが強ければ①になるが、生き方に迷っているだけなら②になる。ただし、UFOや幽霊などを熱心に探す人もいるので、②であっても主観的には見つかることはあろう。
自分探しは若者に似合う。中年になって様々のストレスに耐えられず、「自分探しの旅に出ます」などと言っても周囲は困惑するか諌めるだろう。まだ不安定で自己の確立が不十分な若者には自分探しが許容されるだろうが、中年には、自分が満足していなくても、与えられた位置で励むことが求められる。中年だって自分に満足せず、新しい自分を求める気持ちはあるだろうが、どこかに新しい自分があるとの確信は希薄だろうし、むしろ、与えられた場所で励むべきとされる。
自分には広い多くの可能性があると感じるのは若さの賜物だ。新しい自分を探しあて、新しい充実した毎日が始まるなら喜ぶべきことだ。新しい自分とは気分や意欲が前向きに変化した自分だったとしても、それで生きることに積極性が出てくるのなら自分探しには効果があったということになる。ただし、気分次第で判断や評価が変わるなら、自分探しの旅は断続的に続くかもしれない。