望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

思い込みと因果関係

 年に数回発売されるジャンボ宝クジを友人は買うが、それ以外の宝クジは買わない。「当たる確率を考えると宝クジを買うことは無駄だと知っているが、もし当たったら、大きな家を買うとか高級スポーツカーを買うとか世界旅行するとか家族で言い合って、勝手な夢を膨らませることが楽しいから、ジャンボ宝クジだけは家族サービスの一つとして買っている」と友人。

 買わなければ、もし当たったなら〜という想像を家族で膨らますことができない。友人はジャンボ宝クジを買うことで、家族の会話を活性化させたとするなら、そこに因果関係が成立する(宝クジを買った→家族の会話が活性化した)。だが、宝クジを買うことと当たることには因果関係は存在せず、買わなければ当たらないが、買ってもおそらく当たらない(厳密には、買うとごく僅かの当たる確率が発生する相関関係)。

 宝クジの必勝法として様々なものが伝えられる。金運を上げるために買いに行く前に朝日に祈ったり、神社にお参りしたり、当たると有名な売り場にわざわざ出かけて買ったりし、買った後は宝クジを神棚に祀ったり、陽光に当てたり、風通しのいい場所に置いたりと努力するのだそうだ。もちろん、どれも当たる確率を高めることはできず、これだけ努力したのだから、その見返りはあるはずだとの期待に過ぎない。

 ある事実があり(原因)、それにより引き起こされた事実がある(結果)と両者には因果関係が成立する。だが、二つの事実が偶然続いて起きただけというケースも多い。さらに因果関係の判断は思い込みに影響されやすい。願望や不安に影響されて、二つに事実の間に何らかの関係があると短絡したり、関係があると思いたかったりすると因果関係を即断する。願望や不安に駆られると人は浮き足立つ。

 後から起きた事実が先に起きた事実の影響で起きたのかどうかを判別するには冷静さが必要だ。主観的な推論だけでは因果関係を即断しやすいが、客観的な推論をいつでも誰でも心がけているわけでもない。さらに、金運を上げるという行為を行って、買った宝クジは当たるはずだと願ったりすると主観的な推論に支配されるようになる。

 主観的な推論による因果関係は、複数の事実から一部だけ引き出して組み立てられたりする。例えば、様々な陰謀論の中には、関係する事実の一部を都合良く集めて主張を組み立てつつ、客観的な事実に基づくと装うものがある。さらに、検証が困難な「事実」を紛れ込ませて関係を複雑化させたりもして、フェイクニュースの出来上がりとなる。

 友人の家庭では、買ったジャンボ宝クジを夫人が以前に買った神棚に祀っているそうだ。神頼みしたって当たるはずがないと友人は思うが、夫人や家族には何も言わず、当たったら〜との会話を楽しんでいるという。