望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり




お友達

 


 国際協調を重視する日本人が日本政府の外交を批判する時に、しばしば持ち出されるのが「日本にはアジアに友人がいない。アジアに友人を増やす外交が必要だ」との言葉だ。波風が立っていない時でも、中国や韓国との関係には常に緊張をはらんでいるような印象があり、「友人がいない」のかと納得したくなる。



 それで「なるほど、日本にはアジアに友人がいないかもしれない。お友達はあったほうがいいし、多いほうがいいだろうから、日本もお友達を増やすような外交をしなければ」とつい思いやすいが、外交における友人関係って何だ? 定義は曖昧で、敵対せず、互いに好印象を持ち、時には助け合う国と国……のような関係なのだろうか。外交を論じる時に、情緒的な言葉を用いると、実態がぼやけるばかりだ。



 日本という言葉を他国に置き換えてみれば、「日本にはアジアに友人がいない」という言葉の曖昧さがはっきり見えてくる。例えば、韓国はアジアに友人がいるのか? 中国はアジアに友人がいるのか?(子分はいるようだが) 更には、米国は南北米大陸に友人がいるのか? 英は欧州に友人がいるのか? 仏は欧州に友人がいるのか? 独は欧州に友人がいるのか?

 

 ある人々が、日本がアジアに持つべきと主張する友人なる存在を、持っている国があるのか疑問だ。友好条約を締結することが、お友達であることを意味するとは限らない。歴史を見ても現実世界を見ても、どこの国だって、自国の利益第一で動く(1945年8月以降の日本は例外かもしれないが)。国際関係において、友人なるものを求める言説がまかり通るのは、日本に自主独立した外交が希薄であったため、外交を見る目が観念的になるからだろう。



 外交は各国の国益がぶつかり合うシビアな場だから、常に緊張関係を内包しているので、「ウインウインの関係」がことさら強調されたりする。ある国の利益になることが、隣国の不利益だったりすることは珍しくない。自国に有利になるなら緊張を高めることも外交だろうし、緊張を和らげることも外交だ。それは各国が諸条件を勘案して決めることだ。



 逆に考えると、日本の友人なる国があったとしても、外交では気が抜けまい。諸条件が変化すると、どの国でも外交の優先順位が変化するのが現実世界だ。経済が好調で金離れがいい国には、各国がすり寄り、落ち目で金離れが悪くなった国からは離れて行く。外交における友人なんか、あり得ないと腹を決めて慎重に付き合うほうが、友好的な外交関係を構築しやすいかもしれない。



 友情や友人は大切で、人生を豊かにしてくれるものだが、一方で友情ははかなく、永遠の友情はあるのかという問いが投げかけられたりする。「金の切れ目が縁の切れ目」「落ち目になった時に真の友人が分かる」「成功すると友人は増え、失敗すると減る」「偽りの友より、あからさまな敵の方がまし」……個人でもままならない友人を、国家が国際的に求めても無駄だ。