望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

竹中労さんの人物評<下>

 竹中労さんは名文家でもあった。装飾に頼った美文ではなく、的確で独自の表現を連ねて、あざやかに対象を描いた。週刊誌に連載したタレントの人物評や芸能論を集めた『スター36人斬り』(1970年、実業之日本社。『芸能人別帳』と改題して2001年にちくま文庫)から、当該タレントの人物像を浮かび上がらせる文章をいくつか引用する(末尾の西暦は週刊誌の掲載年)。

 ・「悪評ふんぷんたる有馬稲子、逆説的にいうなら、その悪評のゆえに今日まで大スターであり得たのです」「人生をたえまなく“演技”していなければ不安でたまらない、精神の緊張をもの語る。皮肉なことに、そんな擬勢がスターと呼ばれる人びと特有の心理なのです。有馬稲子さん、あなたは紛れもなくスターであり、スター以外の何者でもないのです」(1967)
 ・「髪をひっつめにして、いかにも清楚、知的な印象のかげに、どす黒い女の惨心が隠されている」、新珠三千代は「牢固としてぬきがたい“美女”のイメージを創りあげてしまった。しかし、それはいかにも非人間的で人工的な美形であった」「逆にいうなら、あまりにフィックス(固定)したイメージてえものは、かえって維持が困難なのだ」「女優であるかぎり、まったくプライバシーを消去したところの“美女の仮面”を脱ぐことができない」(1967)
 ・舞台出演で「彼女は一生懸命だった、謙虚だった。舞台に賭け、ここを先途と必死の力をふりしぼっていた。かっては傲慢であった映画スターのおもかげは、みじんもなかった」「五社協定の荒波にもまれ、にがい水を飲んだことで、山本富士子は“女優”になった」(1966)
 ・吉永小百合は「強烈な“処女シンボル”として売り出され、大スターとなったのであるから、なまはんかな自己否定では“虚像”を突きくずせないだろう」「問題は彼女自身に危機の自覚がまるでなく、純潔路線のエキストラ・イニングで女優商売が成り立っていくと錯覚しているところにある」(1970)
 ・「池端直亮(加山の本名)という、太平洋戦争中に生まれた若者が、ある日、加山雄三なるスターに変身したのは、一にも二にもジャーナリズムの宣伝のおかげである」「そんなふうにして、スターというものは、つくられるのだ」「スターと芸能記者は大衆に虚像を売る“共犯者”である」「人気が頂上をきわめたとき、イメージ・アップは完了するのだ。そこから、ゴシップ、スキャンダルの谷底への落下がはじまる。一時の人気など風の前のチリにひとしい」(1967)
 ・三船敏郎の「酒グセの悪さは以前から定評があり、乱酔の果てに腕力をふるったり、関係のない人間に暴言を吐いたりするクセがある」「エライ人間で、酔えばますますイバるやつほど、不愉快な存在はこの世の中にあるまい」「監督に従属し意のままにあやつられてきた欲求不満は、強烈な“権力への願望”と転化したのである。つまりミフネは自分が“王様”に、クロサワになりたかったのである」(1969)
 ・「美空ひばりという超カリスマが存在して、スキャンダルの雨ニモマケズ、風ニモマケズ、その法王庁的権威は小ゆるぎもしない」「美空ひばりは“三代のうた声”ー明治演歌、大正怨歌、昭和艶歌を一身に集約し、昇華した天才である。いうならば、日本民衆歌曲のアンソロジーであり、エンサイクロペディアである」「浄るり、民謡、端唄、浪曲から、ジャズにちかいフィーリングまで、一つの曲に括って聴かせる芸当は、美空ひばり以外のだれにもマネができないのである」(1970)
 ・「扇(ひろ子)失踪事件の根底には芸能界の人身売買的機構があり、タレントを消耗品としてしか扱わない芸能プロのすさまじい収奪のシステムがあるということなのだ」「自由な1私人の垂松博美(扇の本名)であるかぎり、芸能界の愚劣な“掟”なんか、テンから無視してさしつかえない。もはや消耗品でも、サル廻しのサルでもないのだから」「金で身を売る女郎はみずからの悲惨を知っているが、人気という虚栄虚飾に魂を売るタレントは、自分がどれだけ愚かな存在であるかということを知らない」(1970)
 ・「(雪村)いづみという歌い手は、歌謡界のあさましき内情、修羅の様相てェものに愛想をつかし、知らぬ他国に新規まき直し天地を求めた、ただ1人のスターであった」「借金返すことだけが目的なら、ニッポン低国キャバレー回りでかせげばよい。いづみのアメリカ脱出は、そんな歌手商売のみじめさからのエスケープであった」(1970)