望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

タレント帝国

 『タレント帝国』は昭和43年の竹中労さんの著作だが、「5人の若いルポライター諸君と共働して私は上梓した」「当時、渡辺プロダクションは、まさにタレント帝国に君臨して、取材・出版妨害の工作すさまじく、やっと製本を了えた版元は偽装倒産、ゆくえをくらまし、東・日販の取次ぎ拒否にあって、この書物はわずかに千数百部しか書店にならばず、〝まぼろしのレポート〟と消えてしまった」(『タレント残酷物語』、竹中労著。昭和54年)。

 『タレント帝国』は「芸能プロダクションの構造を分析した、ほとんど唯一の出版物とされている」(同)が、その中に「ジャニーズ解散・始末記」と題された一節がある。ジャニー喜多川による性加害は1999年に週刊文春が連載で明るみに出したと言われるが、昭和43年(1968年)時点ですでに知られていたことだった。

 現在では『タレント帝国』は稀少本だろうから、「ジャニーズ解散・始末記」の中から、ジャニー喜多川による性加害に関連する箇所の概略を紹介する。

・1967年暮れ、ナベプロ所属のジャニーズが解散した。
・1961年、神宮外苑に集まって遊んでいた子どもたち4人は、アイスクリームやコーラを買ってくれるジャーニー喜多川と親しくなり、彼の言うことは何でもきくようになっていった。ジャーニー喜多川は当時32歳。
・1962年、ジャニーズは売れっ子になっていたが、奇妙なふんい気が車で彼らを送り迎えしていたジャニー喜多川との間に醸し出されていく。「あおい君が相談にきて、ジャニーさんのおかげでボクの一生は終わりですと涙ぐんでいた」と真砂みどり談。
・1963年、新芸能学院のK少年が「ジャニーさんに接吻された」と訴えた。名和太郎が追求し、学院の小学生から高校生を含め14人がジャニーの被害に遭っていたことが判明、メリー喜多川は泣き泣き真相を告白した。
・同年6月、名和はジャニーズ4人の父親を集め、ジャニー喜多川に手を引かせることで落ち着いたが、7月に父兄たちは同性愛事件はでっち上げだとして、メリー喜多川に一切を任せると宣言。
・同年、同性愛事件を奇貨としてナベプロはジャニーズの家族を名和太郎から離反させ、ジャニー姉弟ぐるみで掌中におさめることができた。そしてナベプロはジャニーズを大々的に売りまくった。
・原告名和太郎は、金銭問題をぬきにして、ワイセツ事件だけで提訴したところ、被害者(ジャニーズ)の直接の訴えがなければ受理できないと却下され、立替金請求事件とした。
・名和は訴訟の前に、報道関係にジャニーの醜行を暴露する印刷物を配布したが、芸能ジャーナリストの大半は名和の訴えを無視した。
・1967年、東京地裁の記録では、ジャーニー喜多川から性加害を受けたとの複数の少年の証言があったが、法廷に立たされたジャニーズは4人とも、蒼白な表情で震えながら、「覚えていません」「知りません」などと証言。猥褻行為は立証されず示談で終わった。

 文春の報道にジャニー喜多川は文春側を提訴し、一審は喜多川側が勝訴したが、東京高裁は2003年に性加害を認定し、最高裁も喜多川側の上告を退けた。1967年にジャニー喜多川の性加害が法廷に持ちこまれていたのだから、裁判所や検察、警察が適切に動いていれば、数百人ともされる被害者の数はもっと少なくなっていただろう。