望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

硬いステーキ

 最高のもの、一流のものを知っておくことは、見る目を養ってくれる。ただし、最高のもの、一流のものだけを知っていることは、見る目を養うかどうかは分からず、偏った見方をする原因にもなりかねない。望ましいのは、最高のものと最低のもの、一流のものと三流のものを同時に知っておくことだ。そうすれば、評価の尺度を身につけることができ、適切な判断をすることができるようになる。



 例えば、千円程度のステーキを食べ、次には数万円のステーキを食べてみたならば、食感の違い、味わいの違い、肉の良し悪し、焼き加減の良し悪し、味付けの違いなどを体験でき、同じステーキといっても、その“世界”は広いことを知ることができる。(千円のステーキが最低だという意味での例ではない。違いを知るためには食べ比べなければならないということ)



 このステーキの話は永六輔さんがラジオで以前に話していたもの。淀川長治氏に連れられて、安くて硬いステーキを食べさせられ、次にはホテルで高級なステーキをごちそうになり、淀川氏から「これで、最高と最低を知ったろう。これから、どこでどんなステーキを出されようと、そのステーキがどの程度のものか判断する基準を、自分の中に持つことができるはず」というようなことを言われたという。



 誰でも自分の中に評価の尺度を持っているが、世の中に存在する最高のものと最低のもの、一流のものと三流のものを知らずにいると、狭い範囲の経験と主観に頼って判断することになる。千円程度のステーキしか知らずにステーキ全般について語るようなもので、客観性に乏しい見方だと、見る人が見れば分かってしまう。



 最高のものと最低のものを知ることが大事なのは、ステーキを味わうことだけに限られない。衣食住に関わることから、社会に関わることまで、あらゆることに当てはまる。例えば、芸術、芸能、文化などで、見る目を養うためには、一流のものに触れ、知っておくことが欠かせない。ただし、一流のものだけを愛でなければならないということではなく、好みは人それぞれ。三流のものを好きであってもいいが、見分ける目は持っておくこと。



 とはいえ、衣食住から社会の様々なことまで全てに対して、最高のものと最低のもの、一流のものと三流のものを体験して知ることは困難だろうから、最高のもの、一流のものを体験するのは限られた分野になることは避けられない。最高のものを知らずに何かの評価を下す場合には、価値の尺度が自己流でしかないことを意識しておいたほうがいい。



 人間を見る目にも同じことがいえよう。最高の人間と最低の人間、一流の人間と三流の人間を知っておくことが、世の中で出会う人を、どの程度の人物か判断する助けになる。ただ困るのは、最高の人物、一流の人物が誰であるのかが曖昧なこと。例えば、今の日本の政治家で最高の人物、一流の人物は誰かと問われると、誰の名を挙げればいいのか途方に暮れる。二流の人物なら、けっこう思い当たるのだが。