望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

老人という呼び方

 多くの人はいつか、老人(高齢者)としか呼ばれなくなる。仕事をしていた頃は個人名以外に、社長とか部長、店長、オーナー、助役などとポジション絡みや、医者、警官、花屋、作家、漁師など職業絡みの呼び名があったが、“現役”を退いて自宅で暮らすことが主になり、交際範囲も縮小すると、仕事絡みの呼び方で呼ばれることは少なくなる。



 そうなっても近所などの顔見知りならば個人名で呼んでくれるだろうが、見ず知らずの他人からは老人としか見られなくなる。他人に「俺は社長だった」などと言っても、まともに取り合ってもらえるかどうかは分からない。社会的にいつまでも個人名で呼ばれるのは、現役時代に名を残した限られた人だけだろう。



 現役の頃でも、見ず知らずの人からは仕事絡みの呼び方はされないが、何かの仕事をしているものと見られるのが一般的だろうから、老人と一括りにした呼ばれ方は、その人が社会的にはもう老人としてしか存在していないことの反映なのかもしれない。それは、子供が子供としか呼ばれないことと同様か。



 しかし、子供が子供として社会的に愛されるのと同様に、老人が老人として愛されるかといえば、微妙なニュアンスが漂う。愛されないということではないが、社会的に老人と一括りされるときには、生産力としての期待は含まれていないだろう。生産力ではなく個人は個人として尊重されるべきだが、仕事絡みの呼び方をされなくなってから、急に個人を主張し始めても、社会が認めるかどうかは不明だ。だから老人と一括りにされるのかもしれない。



 こんなことを考えたのは、マスコミ報道に溢れる高齢者(老人)などという言葉を見るたびに、個人ではなく高齢者として一括りに扱われている印象を受けるからだ。問題を一般化して捉える時には、対象も一般化する必要があるので、高齢者と一括りにするのはやむを得ない面もあるが、一人ひとりの人生がこぼれ落ちていく気がする。



 認知症などによる徘徊で行方不明になった人が全国で9607人(2012年。警察へ届け出た人数)、うち約200人が行方不明だという。認知症の高齢者は462万人(2012年)で高齢者の15%だったが、高齢化が進むにつれて認知症の高齢者は増えると予測されている。認知症の高齢者には一人ひとりに名前があり、人生がある。現役の頃には、どんな呼ばれ方をしていた人なのかと気になってしまう。