望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

国家の本質

 第1次大戦は国家による初めての総力戦だったとされる。遠くの戦場で常備軍常備軍が戦う戦争に比べ、巨大な規模の壊滅戦となり、兵力補充や兵站のために多数の市民が徴兵され、兵器などの増産のため生産力が総動員されるとともに、戦争遂行のために精神面を含めて国民生活の統制が強化される。

 総力戦では大量破壊(大量消費)が継続するので大量生産が必要になり、国内でも大量動員が行われる。そうした体制を支えるために国内では常に戦意高揚をはかることが必要になり、文化なども戦争目的の正当化のために動員される。総力戦に反対する人は社会から排除されたりもする。

 総力戦は、前線が拡大する戦争でもある。航空兵器の発展もあって、地上の前線から遠い都市なども攻撃され、非戦闘員である市民も戦火に巻き込まれる。戦闘が空間的に拡大して大規模化し、戦争が総力戦になった。総力戦では、武器を持たない市民も攻撃対象になるとともに戦争遂行の協力者になる。

 第2次大戦も総力戦とされ、地球規模で大量破壊と大量殺戮が行われた。米国の大量生産が勝敗を決したともいえる戦争だったが、究極ともされる大量破壊兵器=核爆弾が開発され、実際に使用された戦争である。その後、核兵器を各国が保有したことにより大規模な戦争は相互の破滅になるため、総力戦という戦争形態は終わったとの見方もある。

 第2次大戦の後も戦争は世界でたびたび起きた。だが、兵器の補充は国内生産より外国からの援助に頼り、人々が周辺国に逃れて難民化することに加え、誘導兵器などの投入で大量破壊の範囲が制限されるとともに、地球規模での情報化の進展で政府主導の戦意高揚が簡単ではなくなったこともあり、従来の定義の総力戦を行うことは難しくなった。

 かつての総力戦は、壊滅戦に追い込まれた国家がその本質をさらけ出した姿ともいえる。戦争の勝利や国家の存続が最優先課題になり、「非常時」には個人より国家が優先することを剥き出しに示し、政府に集中した国家権力が人民や経済など国内の全ての資源を強制的に、あるいは半ば強制的に総動員した。

 国家の本質が変わっていないとすれば、壊滅戦は今後も起きるだろうから新たな総力戦が現れる。具体的な現れ方は様々だろうが、政府に国家権力を集中させ統制を強化することが基本になることは同じだ。ただし、情報や人々が流動化する世界に変化しているので、国家の統制の仕掛けは様変わりする。