望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

加害者の側にもいた

 福島第一原発の事故以来、反原発を声高に主張する人が増えた。1、3、4号機原子炉建屋で水素爆発が起きて放射性物質がまき散らされ、数年経っても広い範囲で人々の居住が制限されており、1〜3号機はメルトダウンに至って人が近づけず、原子炉解体のメドが立たない状況なのだから、原発が現実的な危険物であると見なされるのは当然だろう。

 事故が万一起きた時の影響の大きさに加え、使用済み核燃料の処理など難問を無視できなくなり、原発に拒否感を持つ人が増えたのも当然だろう。だから、即時の原発全面廃止の主張が高まったのは至極まっとうなものであるとも見えるが、引っかかるものがある。

 そうした主張を行う人は急増したが、その多くは福島原発事故の以前は反原発活動に積極的に参加もせず、黙って原発の“恩恵”を享受していたのに、事故後は、原発による被害者として自己の主張を正当化し、反原発を言い立てているように見えることだ。40基を超す原発が建設され、稼働していたのは電気事業者や政府などだけの責任ではなく、皆が許容していたからでもある。

 乱暴にいうと、事故前は黙っていた人も福島事故の「共犯者」なのだ。もちろん、責任には濃淡があり、非常用電源など安全面の備えに抜かりがあった東電の責任は非常に大きく、重大事故が起きるものとしての安全対策を徹底させなかった政府の責任も大きいが、東電や政府を責めることで、原発を容認してきたという責任を消すことはできない。

 そうした責任を痛感するから、即時の原発全面廃止を主張するという人もいるだろう。黙って原発を容認してきたからこそ、福島原発の事故を防ぐことができなかったとの意識があるから、責任を持って自分らの時代に原発を廃止して、次代に原発(と事故)を持ち越したくないと考える人もいよう。

 「共犯者」としての責任をごまかしていないのだから正しい認識だろうが、反原発を声高に主張することが免罪符になる可能性もある。厳しく東電などの責任を問い、原発を稼働させないことが、原発を容認してきたことの罪滅ぼしとなるのか。原発の再稼働を阻止できたとしても、福島原発の広い周辺で居住を制限されている人の助けにはならない。

 「共犯者」であるということは加害者の側にいるということだ。謝れと言っているのではないし、補償をしろと言っているのでもない。被害者ぶるのではなく、加害者の側にもいたという意識を明確に持って考えることにより、見えてくる光景が異なってくるだろうし、当事者意識も出てくるかもしれない。