望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

戦争責任の定義

 日常の会話では、言葉の定義(言葉が意味するもの)をいちいち意識することなく、おおよその理解や解釈で使っている人が多いだろう。人により言葉の定義に違いがあっても、誤解を生んだり意思疎通を阻むほどの障害になることは日常では少ないだろうし、違った意味で使っていることが判明しても笑いで済まされたりする。

 だが言葉の定義を明確にすることが必要不可欠となる場合がある。学問は言葉の定義を共有する前提で成り立つし、政治に関連した議論などでも、同一の言葉を各人がそれぞれの定義で使うならば議論は噛み合わないだろう。言葉の定義を共有することにより、認識を共有する部分と相違する部分が明らかになる。

 だが、言葉の定義を曖昧なままに放置して、各人が一方的な主張を行う場合もある。政治などが絡んで、相手の主張に理解を示すことが自己の主張の劣勢や敗北と見られることを避けるために、言葉の定義を共有する努力は放棄され、言葉の定義は自己の主張に好都合なものに設定され、一方的な主張を言い合う。

 例えば、戦争責任という言葉。この言葉は日本やドイツの責任を厳しく問う場合に使われることが多いが、例えば中国やロシア(ソ連)、米国、英国などの戦争責任を問う論説は見当たらない。参戦して戦争を遂行した責任を戦争責任とすれば第二次大戦に参戦した全ての国に戦争責任があるわけだが、そうした議論はなく、日本やドイツに対してだけ戦争責任が問われる。

 すると、戦争責任とは敗戦責任のことになるが、敗戦国の人民が自国政府の敗戦の責任を追及するのなら責任の意味は明白だが、戦勝国側が敗戦国の敗戦責任をいつまでも問うのは奇妙だ。第二次大戦では戦勝国側が日本でもドイツでも裁判を行って敗戦国の指導者を処罰したのだから、戦勝国側の敗戦国に対する責任追及は決着がついている。

 参戦して戦争を遂行した責任ではなく敗戦した責任でもないとすると戦争責任は、開戦した責任ということになる。第二次大戦では日本もドイツも先制攻撃を行ったのだから、開戦した責任は存在する(その責任も大戦終了後の戦勝国による裁判で厳しく問われた)。現在、国連が容認する戦争は自衛のための戦争と国連決議で参戦を容認した戦争だけだから、自国の判断で開戦したならば、その責任は戦争責任として厳しく問われるだろう。

 しかし、例えば、米国によるイラク攻撃やNATOによるコソボ攻撃は自衛のための戦争ではなく国連決議を得ていない戦争だったが、米国やNATOの戦争責任が厳しく問われることはなかった。日本やドイツにあって米国やNATOにないとすると、戦争責任とは開戦責任プラス敗戦責任ということになる。だが、日本もドイツも開戦責任は戦勝国側による裁判で決着済みだ。

 どうやら、終戦から何十年経っても問われ続ける戦争責任とは第二次大戦の敗戦国にだけ課せられたものらしい。第二次大戦後に形成された国際秩序は現在も続いているので日本やドイツの敗戦国という立場は続く。戦争責任という言葉は日本やドイツを牽制し、押さえつけておくためには便利だろう。言葉の定義が曖昧なまま使われるのは、相互の認識の共有が目的ではなく、第二次大戦後の国際秩序の維持のために、言葉の定義が曖昧で、どうにでも使うことができるほうが戦勝国側には都合がいいからだ。