望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「オオカミが来るぞ」パラドクス

 「オオカミが来るぞ」「オオカミが来るぞ」と警鐘を鳴らし続けている人がいる。その警鐘が正しかったことが客観的に証明されるためには、実際にオオカミが来ることが必要だ。ついにオオカミがやって来た時に、警鐘を鳴らしていた人はどんな気持ちになるのだろうか。



 警鐘を鳴らしていた人は、オオカミが来ることを望んでいたわけではあるまい。しかし、実際にオオカミが来ないと、警鐘の正しさは証明されない。ついにオオカミが現れて、自分の警鐘の正しさが証明された。でも、その時には手遅れかも知れず、皆にとってはオオカミは大いなる災難となる。



 やって来たオオカミを見て、警鐘を鳴らし続けていた人は心の片隅では「それみたか。だから言っただろう」と思うだろうが、直面する事態の深刻さを理解すれば、自分の発した警鐘が正しかったことの満足感など、ゆっくり味わっている余裕はないだろう。現実にオオカミが来たのだから、警鐘を鳴らすだけの人間なのか、具体的に対応できる人間なのかが問われる段階になった。



 2011年の福島原発の重大事故で、反原発の警鐘を鳴らし続けて来た団体や人がメディアに取り上げられるようになった。東電は民間企業としては死に体になって、メディアコントロール力を失ったので、原発批判派もメディアに出ることができるようになったのかも知れない。



 「オオカミが来た!」。年に数回話す程度の知人に当時、福島原発事故後に「ハイ」になった人がいる。実は原発批判派だったんだとカミングアウトした本人曰く、「俺は忙しい中、時間を割いて原子力資料情報室の集会に参加したことがあるんだ」と前置きし、「東京も放射能で汚染されている。政府の言うことは信用できない」と強調しながら、パニックを高みの見物しているような風情も漂っていた。



 原発に詳しそうに感じたので、想定される最悪の事態について尋ねると、当人曰く「水道水は飲まず、食べるものの産地に気をつけたほうがいい」。福島原発はどうなるのかと聞くと、「津波は高さが5百メートルにもなることがあるんだ。海岸に原発を建てるのが間違いなんだ」と言う。冗談を言っている気配ではなかったが、真剣に聞くべき内容でもなかった。



 オオカミが来るかも知れないと多くの人も少しは思っていたのだろうが、想定される最悪の事態(オオカミが来た!)の実現可能性(確率)は知らなかった。警鐘を鳴らす人は、「オオカミが来る」ことの実現可能性(確率)を具体的に示すことが、説得力を高めるカギだったかも知れない。