望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

レジスタンスなき平和主義

  戦国時代の山間の農村を舞台とした黒澤明監督の名作「七人の侍」。刈り入れが終わった後に農村はいつも野武士の集団に襲われるので農民は、浪人を雇って村を守ってもらおうとする。で、7人の浪人を雇ったが、野武士との戦いが始まると農民の男たちも竹槍を持って戦う。農民は村から出ないが、村に入った野武士を農民は許さず追いつめる。

 もし農民が、戦うために雇ったのだからと7人の浪人だけで戦わせたとしたなら、多勢に無勢、40人ほどという野武士の集団に負けて村を燃やされていただろう。浪人の指示により頑丈な柵などで村の守りを固め、方面ごとに農民が分かれて竹槍を持って浪人とともに戦ったからこそ村を守ることができた。

 そうした小さな単位の自衛と国単位の防衛問題とを同一レベルで考えることには無理があるだろうし、兵器がハイテク化し、殺傷能力が高度化しているので、民間人が「加勢」しても実際の効果は限られるだろう。だが、いざという時に民間人であっても戦う気持ちがあるかどうかは、防衛問題や平和問題を考える時に影響する。

 民間人も戦えと言っているのではない。防衛問題や平和問題を、戦闘に自分は巻き込まれることがないとして抽象的に考えるのと、自分が巻き込まれる具体的な問題だと考えるのでは、見えてくるものが違うだろうということだ。例えて言えば、いざというと時に、レジスタンスに立ち上がる人と立ち上がらない人とでは、平和論は違ってくるだろう。

 銃を持って戦うだけがレジスタンスではない。戦闘員などを支援し、様々な協力をすることもレジスタンスだし、非戦を貫いて戦争には一切関わらないと侵略者に協力しないのもレジスタンスだ。抵抗の形態は多様だが、抵抗するという意思がなければ、自分が何をするべきか見えないだろう。抵抗する意思があってこそ、自分にできることが見えてくる。

 ただし、抵抗するということは個人が決めることであり、政府などから指示・命令されることではない。政府などの判断が妥当だと考えるなら協力すればいいし、政府などの判断が誤っていると考えるなら、自分の判断で行動し、抵抗すればいい。

 平和がいいに決まっている。穏やかな日常の中、小さな揉め事などで思い悩みながら生活するのが、爆弾が落ちてきたり、ミサイルが撃ち込まれたりする中で暮らすより、はるかにいい。戦争に巻き込まれることは誰も望まないだろう。そうした生活感覚は大切だが、そうした生活感覚だけで防衛問題や平和問題を扱うと、絶対平和主義に固執し、見たくないものから目をそらす弊害も生じかねない。

 いざという時にもレジスタンスに立ち上がらない人の平和主義と、その時には立ち上がる気概がある人の平和主義とは、表面的には似ていても根本は異なる。自分も当事者の1人として問題を考えるか、あくまで傍観者(被害者)として考えるか……その違いは大きい。これは、防衛問題や平和問題だけに当てはまることではなく、他の様々な問題にも当てはまろう。