望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

似たもの探し

 自分と瓜二つの人物が世界に3人いるという説を聞いたことがある。といっても、大々的な調査によって実証された説ではなく、「そっくりな人間が、世界を探せば3人くらいは、いるんじゃないの?」といった気楽な想像によるものらしい。でも、自分そっくりな人が世界に3人いると言われれば、そんな気になり、その3人がどんな人生を送っているのだろうか興味がわいたりする。

 70億を超えた世界の人口を考えると、そっくりな人間が数人、世界のあちこちに存在したとしても不思議はない。でも、瓜二つだから、歩んでいる人生も瓜二つ……のはずはない。見た目はそっくりでも、社会環境や生活環境などは異なり、考え方や発想は違うだろう。自分と同じ姿形の人間が全く別の人生を送っているのを見るのは、自分が選択しなかった別の人生を見せられているような印象になるかも。

 人間ならば、そっくりの他人が存在しても、それをマネだと批判することはできない。どちらもオリジナルだからだ。だが、デザインとなると、似ている(と見なされる)ものは批判される。独自に発想したものでも、似ていれば、パクったと言われる。似ているものを探すのも簡単になった。高価で大部なデザイン集を買わなくたって、今ではネットで検索すれば、世界中から探し出すことができる。

 デザインで「オリジナル」となるためには、登録されることが必要だ。本当に独自の発想で造形したものでも、世界のどこかに既に登録された「オリジナル」が存在すれば、それはパクリとされる。ソックリさんは世界に人間なら3人程度かもしれないが、デザインとなれば世界に数多あるだろう。でも、「オリジナル」は一つに限られるらしい。

 しかし、「オリジナル」となるには、制度が存在する国で手続きをしなければならない。費用もかかる。現在のイラクやシリア、リビアにいる天才デザイナーが独自に何かのデザインを生み出したとしても、国家に支えられた制度によって登録されなければ「オリジナル」とはされない。破綻状態の国では、デザイン登録の制度は機能していないだろう。その天才デザイナーは、他国の誰かの「オリジナル」をパクったと批判されるかもしれない。

 登録という制度の存在を容認するから、「オリジナル」が誰かに占有される。例えば、アフリカやアジアなどの伝統的な布地デザインをパクって西洋の誰かが先に登録すれば、「オリジナル」となり、自分の発想だと主張する立派なデザイナー先生の作品になる。似ていると指摘されても、そうしたパクリは制度に守られる。

 一方で、既存のデザインをパクる行為は世界で横行している。一般に後発国において先進国の製品を模倣し、先進国のデザイナーでも既存のアイデアを拝借する行為は珍しくないだろう。だから制度が必要だということにもなろうが、人間の発想は似たり寄ったりだから、「オリジナル」を過度に尊重すると、素早く広く登録に動いた連中だけが利益を得続ける。そうした登録制度が欧米主導の文化帝国主義を支えている。