望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

検定狂想曲


ゴマ「日本の検定制度ってのは、えらい評判が悪いそうだ」


ハエ「曲がったキュウリがはねられるなど、日本の検定制度は厳しいからな。多少見栄えが悪い程度でも、ダメ。味は同じだと言っても、消費者、特に都会の消費者が買わないそうだ。わざわざ注釈でもつけなければ、店先にも置いてもらえないという」


ゴマ「それは商品検査で、検定とは違う」


ハエ「同じことさ。誰かが規格を作って、その規格に合わなければダメ、はねられる。買って欲しければ、規格に合うように作れ、選別しろってことになってしまう。野菜同様、人間だって不揃いなんだ。見た目だけじゃなくて、精神もいろいろな形をしている。そんな不揃いな人間を、国が設定した規格に合うように作り直し、いろいろなタガをはめて整形する過程を教育だと考える連中が、教科書検定なんてものに熱心になる。発想は同じだ」


ゴマ「しかし、曲がったキュウリには意思はないが、人間には意思がある」


ハエ「意思があるから、曲がった精神も教育で真っすぐに直すことができると見られるのさ。精神も規格化できると」


ゴマ「その意思ってやつが曲者だ。曲がったフリもできるし、真っすぐになったフリもできる。だいたい教科書は子供らにとって、読みたくて読む本ではなかろうし、これだけ情報過多の社会の中では教科書も相対化される。学校の中では検定教科書に書かれていることを信じても、社会に出て見聞を広めれば、自分なりの考え、見方ができて来る」


ハエ「学校はいわば畑なんだな。規格に合う人間になるように整形に務め、畑から出れば、後は選別だけが待っている」


ゴマ「曲がったキュウリだっていいじゃないかと最近は言われるし、日本人はもっと自己主張をしたほうがいいとも言われる。教育も変わらざるを得ないんじゃないか?」


ハエ「変わるにしても、国が教育に関与している限り、方向性は必ず設定される。曲がったキュウリの許容範囲は広くなるかもしれないけど、キュウリ畑の中に生えたナスやトウモロコシは排除され、キュウリだけでまとめて出荷されるということは変わらないだろうな」