望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

次に、やるべきこと

 例えば、「戦争につながる」「民主主義を害する」「国民の権利が制限される」などとして広く社会にデモなどの反対運動が巻き起こる法案がある。先に反対運動があって、そうした反対運動に押されて野党が議会で反対するようになることはなく、議会での野党の反対を援護するように反対運動が盛んになったりする。

 だが、議会で多数を占める与党に押し切られて法案が成立すると、「暴挙を許さないぞ」などと野党もデモなどの反対運動も“抵抗”を続けていく姿勢をアピールするが、やがて、そんな声は聞こえなくなる。そして次の国会になると、次の与野党対立法案が控えていて、野党は新たな反対運動を煽り始める。そんなことを日本の政治は繰り返してきた。

 常に政権批判を続けるのは、議会における野党の重要な役割だ。権力の暴走を監視し、特定層の限られた利益を優先する政策の実施にはストップをかけ、与党が見向きもしない人々のことも考えるのは野党の役割だ。だが、野党の役割と、政党の役割とがいつも一致するわけではない。野党として妥当な行動が、政党としても妥当な行動であるとは限らない。

 大きな問題があると野党が見なす法案が成立したなら、野党は次の与野党対立法案に重点を移して、政権批判を続ける。だが、「戦争につながる」「民主主義を害する」「国民の権利が制限される」などと激しく批判した法案が成立した後、その批判にウソがないなら、政党としては、それらの問題法案の廃止や改正を目指すのが当然だろう。だが、成立した後に野党は、激しい批判の言葉がなかったかのように、問題法案を“放置”する。

 そうした行動が明らかにするのは、(万年)野党が政党としてイビツであるということだ。選挙で多数を獲得して政権を担い、より良い方向へ社会を具体的に変えていこうとするのが政党の本来の姿だろう。だから、問題がある法案が成立したならば、そこで諦めるのではなく、問題がある法案の廃止や改正に向けて動くのが政党としての正しい在り方だ。そのためには、次の選挙で勝って政権を担うための具体的な行動が必要になる。

 声高に政権批判を続けることは、野党の役割ではあっても、具体的な政策の実現で社会を変えようとする政党の優先すべき役割ではない。おそらく(万年)野党は、(万年)野党であることの無力感をごまかし、メディアに取り上げられて存在意義を示すために、大げさに危機感を煽る文句で政権批判する。しかし、それは(万年)野党が政党として奇形であることをも示す。

 議会制民主主義が機能するためには、自由選挙だけでは不充分だということを(万年)野党の存在が教えてくれる。政党として(政治家としても)、政権批判を続けた以外に具体的な成果を残すことができないオノレの存在を直視したなら忸怩たる思いを当然持つだろうが、それは、言動からは伝わってこない。