望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

議会開設は日本人が勝ち取ったものだった…のに

 多数を占める与党が内閣を形成し、政府が法案を国会に提出、それを一定の審議時間を経た後、強行採決して成立させる。これは日本でよくあるパターンだ。国会の審議の中で、全国の人々の代表である議員らが審議を尽くし、法案をより良く修正して成立させるということは日本ではほとんど行われない。重要法案といわれるものほど、政府・与党が原案通り押し切ることが多い。


 国会が機能を失っているのだろうか。冷戦期のようにイデオロギー対立が絡むと、妥協の余地はないのかもしれないが、現在の日本の政治状況は政党間のイデオロギー対立が激しいとはいえない。むしろ対立するほどのイデオロギーを持ち合わせていない政党が大半だろう。自民党も大半の野党も「同じ穴のムジナ」的状況なのに、政府・与党が多数を武器に強行採決を繰り返したりする。選挙目当てのパフォーマンスを演じる場が国会なのか。そう考えると、国会が「軽く」なっていることも理解できる。


 一方で首相や各大臣の諮問機関が増え、重要な方向性がそこで決まる(実際には、諮問機関の事務を担当する官僚のお膳立てによって全てが決まるのだろうが)。国会に委員会を設置して、そこに有識者を呼んで様々な知見を集め、それを踏まえて議員が方向性を議論し、法案に反映させるべきだろう。しかし実際には、首相や大臣の諮問機関が先に方向性を決定することが常態化し、官僚主導で法案化され、国会に提出される。国会で議員は官邸や政党の意向にそって、振り付け通りに踊るだけの存在になっては、国会議員の役割は国会にいることだけとなる。つまり当選することだけが、議員の役割となる。


 かつて当時の安倍首相は「戦後レジームからの脱却」をうたった。政策として具体策がないから象徴的なことを持ち出したことが見え見えだが、多数頼みの国会軽視のやり方から、氏が否定する戦後レジームの中に国会も含まれている気配だった。国会は、日本を占領したアメリカから日本に与えられたものではない。明治の日本人が努力して開設をかちとったものだ。


 自由選挙が行われ、そこで当選した議員により議会が形成される。日本で民主主義は確保されていると言えるだろうが、選挙で多数を得た政党が国会で強行採決を繰り返す。ナチスが選挙で多数をとり、やがて議会を否定して独裁制へと移行した歴史がある。日本で制度的に民主主義が生きていると言えるように、議会のあり方を考える必要がある。