望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





国会改革

 2010年に尖閣諸島沖の漁船衝突事件に関する集中審議が衆院予算委員会で行われた。審議の模様はニュースで断片的に見ただけだが、当時の自民党など野党は声高に政府批判をして「責任、責任」と言い募り、政府サイドは政府見解を繰り返して、突っぱねるだけ……という印象だった。

 そういえば、民主党の政治家たちも野党だった頃は元気に自民党政府を攻撃していたことを思い出した。何の法案でも党議拘束がかかり、採決(時には強行採決)までの「時間つぶし」が国会審議だという実態では、野党はヒステリックに政府批判にもっていくしかないんだろうな。だから、ヤジを激しくして審議に「華」をそえる?

 国会での与野党の議員による審議により、官僚が書いて国会に提出された法案の条文を書き換えて行くことが、政治家主導の政治であり、脱官僚の最たるものだろうが、法案を書き換えるだけの力が議員にあるのだろうか。あるなら、とっくに議員はやってるはずだ……という見方もある。

 当時の集中審議を見ると、強硬策を次々と重ねた中国に対するイラダチを議員が政府にぶつけていたような印象もある。事実認識を共有することが議論のベースにあるべきだが、衝突時の映像さえ政府が議会にも隠したままでは、議員らは、てんでの考えで発言する。事実認識に差があるため、議論は時に噛み合わなくなる。

 当時の集中審議では、覇権をあからさまに求めるようになった中国に対する今後の外交方針をも議論すべきだったが、政府の責任問題という内政問題に変わってしまった印象だ。対中国政策こそ議員らが議論すべきだったのに、議員は「得意」の政府攻撃で審議を「盛り上げた」。

 こうしたことは、衆議院参議院の区別がなくなっているから生じる。内向きだという日本では、普段から国際問題・外交問題は影が薄いが、アメリカに距離を置いて自立するなら、日本に自前の外交政策が必要だ。日本の議会が議論して、外交について方針を策定することができなければ、外務省の官僚の筋書きに頼るしかない。それは政治家主導ではない。

 議会が外交問題外交問題として審議するには、内政問題に転嫁させないことが必要だ。そのためには、衆議院参議院で機能を分けることしかない。衆議院は内政を審議する場とし、参議院は外交・防衛を審議する場とする。こうなれば、「ねじれ」などで議会が停滞し続けることもなくなるだろう。もちろん定数も見直す。参議院は定数100人。選挙は全国区とし、政党別の完全比例代表制とする。