望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

政党の弁証法的成長

 2009年夏の衆院議員総選挙で大勝した民主党は政権を担ったが、「改革」の実は上がらず、米軍の普天間基地移設問題や消費税などで迷走し、政治資金問題などでの追及や党内対立の激化などで支持率は低迷、2012年に解散・総選挙で主権者の再度の支持を求めたが、大敗して野党に戻った。

 1度とはいえ政権を担ったのだから民主党が野党に戻っても、従来のような政権・与党を攻撃するだけに熱心な野党から、いつでも政権を担う準備ができている野党になることが期待された。だが、野党に戻った民主党は以前の野党のスタイルで、いつでも政権を担うことができる政党であると主権者に示すことができなかった。

 民主党自民党も野党になったときに、政策論議を重視して「政権担当能力」を主権者に示すことは限定的で、スキャンダルなどで政権攻撃(=政権の否定)に励んだ。政治家として不適切な人物を排除するためにはスキャンダル追求を行うことは必要なことだろうが、それは国会審議において中心となるものではあるまい。激しい政権攻撃は政権への支持を減らす効果はあるが、攻撃した野党への支持を高めるものではない。

 日本では自民党の政権が長く続き、政権を担った経験がある政党は少ない。だから政策に影響を与えることが難しい野党は政権攻撃に励んで、それが日本における野党のスタイルになったのかもしれない。政権攻撃はマスコミ受けもいいだろうから野党の存在感をアピールするには重宝だ。

 政権攻撃に励むのは野党が現実政治において受動的な立場にいることと関係する。スキャンダル追求などの政権攻撃で能動的な姿勢にも見えるが、予算をはじめ提出法案の修正はほとんど行われず、実行される政策への野党の関与は乏しい。成立が見込めなくとも野党が独自に法案を提出することもほぼなく、政府・与党の動きに対応するだけの受身の姿勢のままでいる。

 政党が野党を経験し、与党も経験したならば、その二つの経験を積み重ね、いつでも政権を担うことができる政党に変貌すると想像するのは自然だろう。いわば政党の弁証法的成長だ。いつでも政権を担うことができる政党が複数存在することは日本の政治の安定感を高め、日本の民主主義の健全性をも向上させる。

 しかし、自民党は野党になったときに従来の日本の野党スタイルを演じ、政権から離れた民主党は従来の野党スタイルに戻った。政権攻撃だけではなく建設的な提案のできる政党が増えることが望ましいと以前から言われてきたが、人材の問題か政党組織の問題か、そうした政党は現れず、いつでも政権を担うことができるという野党の不在が続いている。