望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

歌の解釈は自由

 「上を向いて歩こう」は1961年に発売されてヒットし、人々は様々な思いを込めて「♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように〜」と歌い継いで来た。涙がこぼれそうな場面は失恋や別離、喪失、諍い、敗北など様々あり、悲しさ、悔しさ、情けなさ、衝撃、未練など様々な思いを込めて歌っただろう。もちろん、そうした特別な思いがなくても、いい歌として歌うことができる。

 この曲の作詞者の永六輔氏が数年前に亡くなり、追悼する文章が多く現れたが、その中には、この曲の歌詞は、60年安保闘争で安保改定を阻止できなかった側の気持ちをつづったものだと説明するものがあった。永六輔氏が明らかにしていたというから間違いではないのだろうが、永六輔氏の失恋体験をつづったものだとする説明もあったりする。

 政治に敏感な人なら「上を向いて歩こう」は反安保の歌だとし、イデオロギー色がついた歌だと見なすかもしれない。そうなると安保を容認する人は、この曲を歌うことを憚らなければならないのかな。でも、安保条約を現在の日本人の多くが容認していると世論調査などでは示されるが、この曲は人々に愛され、歌い継がれている。

 政治は全てを支配下に置こうとし、歌など芸能も支配下に置いて利用しようとする(ここでいう政治とは権力を持つ側だけに限定されず、反体制の側なども含む)。だが、政治に従属した途端に歌など芸能は輝きを減じ始める。発想や表現などの自由さが歌など芸能には欠かせないのに、政治に従属することで途端に窮屈さが増すからだ。そうした窮屈さを人々は敏感に察する。

 「上を向いて歩こう」がどのような経緯で誕生したものであろうと、今さら60年安保闘争と結びつけて解釈する必要はない。そもそも60年安保闘争を知らない世代も増えているのだから、50年以上前の反体制側のイデオロギーが現在でも有効であるかどうか疑わしい。60年安保闘争を崇め奉る人達が、この曲を歌って当時を懐かしがることは自由だが、何でも政治色に染めて見るという悪癖は自覚すべきか。

 歌が世に出て人々に歌い継がれたなら、歌は作者から離れて一人歩きする。作詞者がどのような思いを歌詞に込めようと、歌う人は自分の思いを込めて(あるいは、単なる歌として)歌う。作者の意図に沿って解釈し、歌わなければならないするのは、芸術至上主義めいた思い上がりであろう。60年安保闘争という特定の状況から誕生したものであったとしても、普遍的な感情を表現した歌に変化したから多くの人は歌い継いでいるのだ。

 人は、歌いたい歌を歌いたい時に自由に歌うことができる。軍歌を平和論者が歌い、「上を向いて歩こう」を安保条約支持者が歌い、「網走番外地」を警官が歌ったって自由なのだ。歌など芸能は自由な存在であり、解釈も自由であるからこそ人々に受け入れられる。多くの人を慰め、元気づける歌を作詞したということだけで作詞者にとっては大いなる名誉であり、60年安保闘争に結びつけた解釈は蛇足であった。