望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

大義が隠すもの

 大義とは、「人間として踏み行うべき最も大切な道(特に国家・君主に対して国民のとるべき道をいうことが多い)」「重要な意義。大切な意味」(大辞林)であり、大義名分は「人として、また臣民として守るべき事柄」「何か事をするにあたっての根拠。やましくない口実」(同)とある。何か大きなものと結びつけて、自己の言動を正当化するときに使われる言葉だ。

 現代では、君主を持ち出す大義は歌舞伎や時代劇の中だけに限られるように、大義は時代とともに変わる。「国家のために」という大義はまだ生き残っているが、国家のためと言えば何でも許されるわけではなくなった。国家の在り方が問われるようになり、国家のための大義よりも、例えば、民主主義や人権などを優先する人もいる。

 大義は地域によっても変わり、宗教によっても変わる。現代の世界を揺るがしているのは、イスラム圏の大義だろう。異教徒との戦いをイスラム教徒の大義だとし、武装勢力の活動や欧州諸国などでのテロを正当化しているように見える。日常の中にテロを持ち込まれたと感じる欧州諸国の人々にとっては、まことに迷惑な「大義」だ。

 大義がうさん臭く見えるのは、殺人を正当化するケースだ。社会には人命よりも優先する価値があるという考え方は、抽象論としては検討に値するだろうし、歴史的な事件を検証する時には当時の価値判断を考慮しなければならないので、当時の大義を踏まえることは必要だ。だが、死刑廃止の広がりが示すように現在では、人命より優先する大義があるとの考え方は限定されよう。

 数年前にフランス北西部の教会で高齢の神父が殺害された。教会に入った犯人2人は朝の礼拝中の神父を跪かせ、喉を切って殺害し、その様子を動画で撮影していたとも伝えられた。喉を切る殺害方法は、捕虜などを残忍に殺害するISの公開動画を連想させる。

 ローマ法王は事件後、世界では「利益をめぐる戦争やカネをめぐる戦争、天然資源をめぐる戦争、人々を支配するための戦争が起きている」と述べたが、宗教戦争ではないとし、「あらゆる宗教は平和を欲している。戦争を欲しているのは他の人々だ」と語った。ISのテロリストがカトリック聖職者を殺害したのは欧州では初めてであり、動揺を抑えようとの意図もあっただろう。

 宗教戦争が始まったなら、大義大義の衝突であるから、双方とも簡単には妥協できなくなる。ISの影響下にある世界各地の人々がテロを実行し、成功しても失敗してもISには恐怖を煽ったという「成果」だけは残る。大義をまとったテロは厄介だ。犯罪の枠組みから抜け出し、政治行為や宗教行為に化けることもある。