望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

30万人と300人

 政府が独裁的に政治を行う国では、議会があったとしても、民主主義国であるような体裁を整えるための飾りの役目でしかない。議会が民意を反映せず、議会が機能しない国では政府は民意を軽視し、往々にして無視する。そうした国で人々が暴力的に弾圧される危険をかまわずデモを行うことは、民意を政治に反映させようという意思表示である。

 民主主義が機能し、自由選挙により選出された議員により形成された議会が存在する国でも人々はデモを行う。そうした社会では、民意は自由選挙を経て政治に反映しているのであろうから、デモは民意の反映ではなく、特定の人々の主張を表す手段になる。デモを行うことの制約が少ない社会では、人々は自分らの主張を示すために手軽にデモを行うだろう。

 民主主義が機能している社会で、数十万人のデモが議会を取り巻いて彼らの主張を訴えても、異なる見解を持つ議員が議会で多数を占めていれば、数十万人のデモの主張とは異なる決定が議会で行われる。そうした状況は反民主主義的ではない。むしろ、自由選挙で形成された議会に、数十万人のデモによる「圧力」で特定の主張に従わせようとするほうが民主主義に反する行為かもしれない。

 デモを否定しているのではない。小さくても大規模でもデモは人民の権利であるし、圧力を加えようとデモで議会を取り巻くことも人民の権利だ。ただ、自由選挙により形成された議会があるなら、30万人のデモで議会を取り巻いて主張をアピールすることより、自分らの主張に賛同する議員を議会内に300人確保するほうが、現実的に社会を動かすことができる。

 逆にいうと、自分らの主張に賛同する議員を300人確保できないから、多数のデモで議会を取り巻いて自分らの主張をアピールするのかもしれない。この方法は皮肉なことに、いつまでも自分たちの主張をアピールし続けることができる環境をつくり出す。つまり、現実的に社会を変えることができないから、○○反対の主張を何年たっても繰り返しアピールし続けることができる。

 30万人のデモで議会を取り囲み、自分らの主張をアピールする人々は、社会を変えようと行動しているのだという高揚感とともに、その主張が実現しないことから闘い続けなくてはならないとの使命感を持つかもしれない。しかし、そこに欠落しているのは「なぜ自分らの主張と異なる決定が議会でなされるのか」という検証だ。

 検証が行われないから、同じ「失敗」を繰り返す。自分らの主張に賛同する議員を増やして、自由選挙により形成された議会で多数を占めることを目指さず、30万人のデモを40万人に増やしたところで、法律の1つの条文さえ変えることはできまい。行政に対する影響力も限られる。

 デモに参加した人は高揚感を「いい思い出」として持ち続け、年月を経ると「昔は俺も頑張ったんだ」などと回顧するかもしれない。だが、政治的には敗北したという現実を軽視するから、同じ敗北を繰り返すのだ。次に敗北したくないなら、どうすべきか。60年安保闘争から半世紀以上経つのに、世代が入れ替わっても同じような政治的敗北を繰り返す人々は、歴史からも経験からも学ぼうとしないように見える。