望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

国民国家と「近代の秋」

 既得権益層やエリートから国家主権を取り戻し、一般人の感覚に基づいて運営される「健全」な国民国家へ回帰することで、民主主義を取り戻そうという動きが世界で見られる。そうした動きはポピュリズムだとの批判も盛んに行われ、国民国家のあり方が揺らいでいる。互いに善悪の価値判断を含ませた批判が混じるので、時には罵倒合戦の様相を呈したりもする。

 グローバル化の進展に伴い国民国家は、国内的には強大な力を持つが国境を超える問題には非力であり、行き詰まっていることは明らかだ。しかし、主権者の中に様々な利害対立があり、それぞれが望む国家像も様々に異なるだろうから、選挙のたびに国家のあり方は揺らぎ続ける。

 おそらく、現状の国際主義を続けても国家主権を取り戻そうとしても、国民国家というシステムを安定させることはできない。グローバル化は経済分野で顕著だが、政治や社会問題、文化など広範囲でも進んでおり、国民国家単位では対応できなくなっている一方、グローバル化に伴う国内での反発・反動にも相応の正当性があるからだ(民族性の主張などを国民国家は無視できない)。

 国民国家グローバル化の進展を厳しくチェックする役割を果たしていたなら、もっと信頼されていたかもしれないが、グローバル化の進展を後追いするだけだ。「現代は世界秩序について責任を持つ主体が存在しないシステム」であり、主権国家は国内秩序を維持するには優れたシステムだが「世界秩序を維持するには不十分」とするのが水野和夫氏(『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)で、世界的公共性の担い手が不在だとする。

 主権国家システムと資本主義が両立できるのは、実物投資空間が「無限」で経済が成長し続ける場合のみだとする水野氏は、現代はフロンティアなき時代であり、資本主義の終焉が主権国家システムにも「死亡宣告書」を突きつけていると見る。

 国民国家という単位では、グローバルに富を収奪する資本主義を統制できなくなっているとする水野氏は、やがて世界はいくつもの「閉じた地域帝国」の形成に向かい、定常状態へ移行していくと説く。歴史を振り返り、「中世の秋」のような「近代の秋」が始まっていて、移行には百年単位かかるとする。

 資本主義と民主主義が共存できたのは、国民国家中産階級を増やしていた時代だけだったのかもしれない。フロンティアなき時代になり、拡大再生産が壁にぶつかって久しい資本主義は中産階級を富の収奪の対象にし、格差と分裂の拡大を促進している。資本主義と民主主義が共存し難くなると、国民国家というシステムを維持することは困難だろう。それが「近代の秋」の当面の課題かもしれない。