望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

プロパガンダとアート

 思想や政治的主張などの宣伝がプロパガンダだ。企業が行う宣伝は、自社の商品を買うように促したり、自社に好感を持つように働きかけるが、プロパガンダは組織などが、人々の意識を一定の方向に向くように操作しようとする宣伝だ。ただし、宣伝であると受け手に意識させないよう装うことも珍しくない。

 プロパガンダの有力な手段の一つがアートである。例えば、共産主義国などでの政治メッセージを伝える大きな壁画や各種のポスター、絵画、彫刻、歌などは代表例で、斬新な表現などでアートとして評価された作品もある(ただし、大半はプロパガンダが陳腐化すれば葬られる)。アートは容易に政治に従属するものだ。

 どんな作品を作ろうとアートは自由なのであり、プロパガンダを目的とした作品であってもアートを名乗ることができる。ただし、アートを名乗るならアートとして評価されるべきだ。だが、プロパガンダを目的とするアートはプロパガンダの部分を同調者らが賞賛するだけで、アートとしての評価はなおざりになる。

 プロパガンダを目的とする作品は、アートとして評価に値しない凡庸な表現であっても、プロパガンダゆえに持てはやされたりする。これはアートという価値観を貶めているのだが、プロパガンダに作家が従属した時点で、アートもプロパガンダに従属する。

 プロパガンダを目的に制作された作品が、社会にアートとして承認されたり、アートとして受け入れられることは、プロパガンダの成功でもある。だから、あるプロパガンダを浸透させたいと運動する人々は、作品をアートとして社会に承認させることに励む。

 凡庸な表現でしかない作品を社会にアートだと認識させることは、プロパガンダを承認させ、拡散させるための重要なステップだ。そうした作品を見に行く人はアートを鑑賞する素振りでも、作品に付属するプロパガンダを意識し、凡庸な表現に気づいても無視するだろう(プロパガンダへの賛同者しか、わざわざ見に行かない?)。

 アートをプロパガンダとして利用する人々にはアートに対する敬意が皆無だが、凡庸な表現をアートとして流通させる社会にも、アートに対する敬意が欠けている。プロパガンダを剥ぎ取って、作品そのものを直視する姿勢がないのなら、アートを評価することは不可能だろう。つまり、アートに対する鑑賞眼が希薄か欠如している社会か。