望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

社会の規範とLGBT

 イスラム国(IS)は支配下に置いていたシリアなどで銃殺や斬首、焼殺などの残虐な処刑を行い、そうした映像を一部は公開した。その中に、同性愛者との理由により、ビル屋上から男性を突き落として処刑した映像もあった。地上では人々が集まり、見ていたという。

 ISは、男性の同性愛者はイスラム教の聖典コーランの教えや預言者ムハンマドの言行録に背く者だとし、処刑を正当化した。ISの支配地では同性愛者や両性愛者、トランスジェンダーは厳しい状況に置かれていたという。

 イスラム教では同性愛は禁止され、中東やアフリカなど世界には法律で同性愛を処罰対象にしている国がある。サウジアラビアやイラン、アフガニスタンパキスタンスーダンなどでは死刑の対象であり、ロシアやインド、マレーシア、ミャンマー、エジプト、エチオピアアルジェリアなどでは懲役刑の対象になる。

 一方で欧米などの諸国では同性婚が法的に制度化され、LGBTの権利拡大を要求する運動が盛んだ。同性愛などを巡る法的状況は世界では大きく二分されているのだが、日本などのように同性愛を処罰する法も同性婚を認める法もなく、個人の自由としている国もある。

 「誰を愛するか」「誰と性交渉するか」……これは極めて私的な領域だ。同時に、そうした対人関係は社会における人間関係の基本的な単位ともなる。だから、社会は、婚姻や性交により形成される人間関係(集団)に社会的な規範に合致するよう要求してきた。

 宗教は個人の意識や行動に規範を与える。宗教が社会に大きく影響を与えているところでは、個人に対して社会が宗教の影響を受けた規範を示し、それで律しようとする。欧米などがLGBTの権利容認に積極的に動くのは、LGBTに対する圧力が根強いと同時に、宗教的な規範と社会的な規範が分離しつつあることを示している。

 宗教の締め付けが強い社会ではLGBTは弱者との位置付けなのかもしれないが、個人の性的嗜好は個人の自由であるとする日本のような社会でのLGBTの位置付けは異なる。欧米の影響を受けて日本でもLGBTの権利拡大の動きが大きく報じられるようになったが、そうした運動が日本では誰に対して何を要求しているのか曖昧だ。「誰を愛してもいい」という日本でいま、LGBTは社会的な対策を必要とする問題なのだろうか。