望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ニュースバリュー

 ニュースバリューとは「ニュースとして報道する価値」のことで、価値は出来事の重要性に基づいて判断され、優先順位がつけられる。ただし、新聞社もテレビ局も大衆相手の商売なので、大衆が求め、欲していたり、興味を持つだろうニュースの価値は上位になる。つまり、大衆にウケるニュースを大きく報じることが時には行われる。

 大衆が知りたいと欲するニュースとは需要があるニュースであり、新聞社やテレビ局がそうした需要に応えることは不思議ではない。社会を動かし、変化をもたらす政治や経済や社会に潜む不合理の暴露などのニュースよりも芸能やスポーツなどのニュースが優先的に扱われたりするのは商業メディアの宿命だ。

 需要に応えて供給するのは正当な経済活動だが、報道には社会的な使命があるとされ、大衆にウケそうなニュースに偏って配信する媒体は軽んじて見られる。だが、社会的な使命感を前面に掲げ、硬派なニュースが大半では視聴率は上がらず、発行部数も頭打ちになりかねない。ニュースバリューの優先順位が送り手側と受け手側で異なることは常であり、大衆におもねりすぎずに送り手側の価値観を主張するニュース編成が必要となる。

 ニュースバリューは、時により場所により人により常に変化する。災害の被災地で生きる人々にとってはライフラインの復旧などの情報が求められ、芸能やスポーツなどのニュースの優先順位は低い。ウクライナやガザの人々にとって大谷選手の大リーグでの活躍は何の価値もないニュースであろうし、野球に興味がない欧州などの人々にとっても大谷選手の活躍のニュースは報じる価値のないニュースであろう。

 大リーグのオープン戦で大谷選手がホームランを打ったことが日本のテレビ各局でトップニュースになった。オープン戦での打撃成績には重要な意味はなく、客観的に見ればスポーツニュースのコーナーで短く伝えるのがせいぜいのニュースバリューしかないが、日本のテレビ各局はトップニュースで伝えた。

 これは聴取者=大衆におもねった判断であったが、大谷選手の人気や好感度が非常に高いと判断したニュース編成だ。オープン戦のニュースの重要度は長続きせず、公式戦が始まったなら見向きもされないニュースになるだろう。これは、マスメディアの大衆迎合の姿勢をよく反映した事例で、チャンネルを合わせてもらい、視聴率を稼ぐことがニュースバリューを決めた例だ。

 大衆が求め、続報を欲するニュースは、最初は新聞社やテレビ局から提供されたものだ。大衆が興味を持つことでニュースの需要が喚起され、マスメディアは続報を提供し続けることで存在感を示す。ただし、大衆迎合に傾きすぎると、そうしたマスメディアを大衆は軽視するようにもなる。大衆にウケれば良いとするマスメディアのニュースバリュー判断の軽薄さを、大谷選手の活躍と笑顔が隠し続けることができるか誰も知らない。

成長しすぎた自動車

 新型のクラウンのセダンは全長5030mmで全幅1890mm、車重2000kgと巨体になったが、1955年に発売された初代のクラウンは全長4285mm、全幅1680mm、車重1210kgだった。現行のカローラ・セダンは全長4495mm、全幅1745mm、車重1230〜1430kgなので初代クラウンはかなり小型だった。

 モデルチェンジが行われるたびに少しずつ「成長」するのは日本車だけではない。例えば、ベンツが小型車に参入したと騒がれたCクラスの現行型は全長4751mm、全幅1820mmだが、初代(190。1985年)は全長4420mm、全幅1680mmだった。BMWの各車種もモデルチェンジのたびに巨体化し、中型の5シリーズは初代(1972年)は全長4620mm、全幅1690mmだったが、現行5は全長5060mm、全幅1900mmと巨体化した。

 各国で自動車の保有台数が増え続け、各国メーカーの各車種はモデルチェンジのたびに車体が大きくなっているので、車道における自動車の密度は高くなる。各国で、絶え間なく車道を拡幅するとともに新しい車道を建設し続けているなら、巨体化して増殖する自動車に対応した道路環境となるだろう。だが、既存の住宅が密な都市における道路の拡幅や新設は簡単ではない。

 自動車は、安全基準に対応して車体は堅固になるとともに重くなり、装備を充実させると重くなり、車体が大きくなると重くなり、EVやPHV、HVなど積む電池が多くなると重くなる。自動車の重量を受け止めるのは道路だが、重量級の車両が増えると痛みつけられる度合いも増える。

 仏パリ市の住民投票で、重量の重いクルマに対して市内の駐車料金を3倍にすることが承認された。対象になるのは、重量が1600kgを超えるガソリン車、ディーゼル車、ハイブリッド車と、2000kgを超えるEVだ。居住者やタクシーなど業務目的の場合は適用されない。市長は「健康にも地球にも良い措置を支持する市民の明確な選択」だと歓迎したという。

 これはSUVを標的にした動きだと報じられた。販売台数が増えて路上に多くなったSUVは、大きく車重が重く、「公害や安全性などの面で多くの問題を引き起こしている」とパリ市。住民投票による賛同を得て駐車料金を大幅に引き上げることで、市内に入るSUVの台数を減らすことが狙いだという。

 大きく重量の重いクルマに対する規制は英ロンドン市も検討していると伝えられ、大型のSUVは各国でも増えているので、「成長」して大きく重くなる自動車に対する規制は今後増えるかもしれない。一方で小型でエコな2人乗り程度の自動車の普及は進まない。大きく重いSUVが売れるのは、人々が環境意識よりも別の何かを重視していることを示している。

科学的な思考

 科学者は、あらゆる事柄に対して常に科学的な思考を行っているわけではないということを加藤周一氏は分かりやすく説明している。加藤氏の発言を収録した『居酒屋の加藤周一』から引用する。

「『科学者はだまされない』というのは一種の迷信です。ある意味では、科学者の方が騙しやすいのです。何しろ、少ない情報から本質を推定したり、事実の断片を繋ぎ合わせて全時系列を頭に描いたりするのが得意ですから、逆に言うと思い込みに陥りやすいのです」

 思い込みに陥りやすい科学者が自尊心の高い人だったなら、科学者ではない人々の言うことを軽んじたり、無視したりするだろう。そこに、社会に対して説明責任を果たさない科学者が、一方的な発言に終始したりする遠因がありそうだ。

「科学技術が発達すればするほど専門化が徹底します。専門領域については科学的思考をするわけですが、極度に専門化した自分の領域を外れたら、自分の専門領域での、ものの考え方を他の領域に及ぼさないんです。
 専門化ということは、隣の領域は隣の領域で複雑で、それをやっている人以外にはなかなか分からないということを意味しますから、分かるのが容易でないということも絡んできて、自分の専門領域での思考の形式が、他のことを考えるときに作動しないんです。
 その意味では、科学技術者もそんなに摩訶不思議なものではなくて、自分の専門領域以外では全然、科学者でない人と同じ、ほとんど大抵の場合がそうです。
 つまり科学者であって自分の科学的な考えをいろんな面で応用するという人が少なくなってきている。科学技術が発達すればするほど、むしろ非科学的なものが栄える一つの理由です」

「人間は思ったより騙されやすいのです。ほどほどに理性的な心の働きが備わってくると、対象物の属性のごく一部の情報から勝手にその物の本性を推定するとか、目の前で時系列的に起こった一連の事実の断片を自分が理解しやすいように勝手に繋ぎあわせて解釈するといった『思い込み』が出てくるために、手品師の付け入る余地が出てきます。
 人間にほどほど理性的な心の働きがあるゆえに実は騙されるというと、やや逆説的に聞こえるかもしれません。理性は騙されないための心の砦だと思っていたら、どうも逆の面もある」

 科学者も自分の専門領域のほかの事柄に対しては、様々な思い込みを持ち、そうした思い込みに思考は影響されているだろう。問題は、科学者が専門外の領域について発言するときに、それは科学的に正確なのか、1人の人間の感想なのかが曖昧になることだろう。その曖昧さは科学者の発言を聞く側に、科学者の言うことは全て客観的で理性的だとの誤解をもたらす。

映画と戦争

 複雑な民族構成だったユーゴスラビアで、連邦を構成する共和国などが独立する過程で複数の戦争が行われた。独立を正当化するために持ち出されたのが民族自決だが、ある民族の自決の主張は他の民族の反発と民族意識の覚醒を生じさせ、妥協の余地を狭める。民族意識が権力闘争を正当化するために持ち出されるのは世界でよくあることだ。

 仲良く共に暮らしていた人々の中に、民族意識を刺激されて民族意識を強めた人々が現れ、やがて「彼らと我々」を峻別するようになり、摩擦や対立が広がるにつれ、「敵と味方」との意識に発展し、多くの民族が共生していた社会が分裂に向かう。分裂の過程で武力衝突を繰り返し、殺し合ったのがユーゴスラビアだった。

 人々が共生していた社会が分裂し、崩壊していく状況を見ていた人々の中には民族主義と距離を置く人もいて、崩壊する社会を複雑な思いで見ていただろう。民族主義の論理を用いずに当時の混乱を見ると、「なぜなんだ?」との疑問が次々に湧き出てきて、そうした疑問に創作意欲を刺激された映画人が少なからず存在していたらしく、ユーゴスラビア解体は多くの映画を誕生させた。

 例えば、「アンダーグラウンド」「ユリシーズの瞳」「ブコバルに手紙は届かない」「ビフォア・ザ・レイン」「戦場のジャーナリスト」「パーフェクト・サークル」「ボスニア」「ノー・マンズ・ランド」「灼熱」「バルカン・クライシス」など20本以上の作品が残る。

 それぞれに人々と戦争との関わりを描き、物語の中に取り込んだ戦争を記録することを意図した映画だと解釈できる。ところが、「アンダーグラウンド」はやや趣を異にし、現実の戦争を再構築して、おとぎ話のような架空の歴史物語で現実の戦争を表現した映画だ。ユーゴスラビアの形成から崩壊までを地下世界で生きる人々で描き、地下世界から脱出した人々が直面した世界が現実の戦争で、一気に現実の世界に投げ込まれる。

 戦争では交戦する側がそれぞれに正義を掲げ、やがて勝った側の主張が正義だったとして歴史に刻まれる。だが、ユーゴスラビアの解体過程に行われた複数の戦争では複数の正義が主張され、どちらかの無条件降伏といった結末には至らなかったこともあり、複数の正義の主張が残っている(西欧主導の世界ではセルビアが敗者とされ、その主張は否定の対象になるが)。

 映画「アンダーグラウンド」は、連邦国家としてのユーグスラビアのレクイエムである。どの戦闘主体の側にも与せず、ユーゴスラビアの解体に進む戦争の過酷さを寓話として描くことで、ユーゴスラビアの歴史と解体を物語として記録した。戦争を記録するならドキュメンタリーの手法が適するだろうが、戦争を記憶するためには物語として再構築する手法があり、それで傑作と評される作品を作ることもできるのだと示した。

女遊びと性加害

 アラカンこと嵐寛寿郎は、「鞍馬天狗」「むっつり右門」の2大シリーズの主役を務め、脇役に回った晩年は鬼虎を演じて評判となった大スターだ。「50年も役者やってきて、胸を張っていえることなど、かけらもおまへんけどな。お客を楽しませてきた、これだけはまちがいのないことダ」と庶民に支持されてきたことを喜ぶ(『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』竹中労著。以下の引用も同書から)。

 「月給千円くれよった、たちまち芸者遊びです、ハメがはずれた」という二十代の頃は、小唄を習いに「三味線弾かせて、さしむかいの稽古、個人教授というやっちゃ。へえ毎晩ダ。撮影終わったらまっすぐ祇園先斗町・宮川筋や、そら熱心なものやった」「月給千円や、つかいでがありました、そのころ祇園の芸妓を根引きにしても1ヵ月三百円」。

 「けっきょく寝る女でも、手つづきがおますわな、そこがウデとこうなる」「スケベイと好色とはちがうんですわ。千人斬りようせなんダ。まあ道草が多かったということやね、ワテの色の道は」「十人の女と1ぺんづつするよりも、1人の女と心ゆくまで十ぺんするのがよろしい、それがわかるには三年早かった」。

 「モテました。モテすぎた、役者が人気とるゆうことはこれやなと、まあはっきりいえば、タダでしようと思えば、オメコいくらでもでける、それが人気の正体ダ」「世間の目がこわくって、四畳半専門や。金でカタがつく水商売の女しか相手にしなかった、という人もおますやろな。それもある。ワテは臆病な人間です、後くされ、ご免や」

 「女に家建ててやる、着物買うてやる、貯金通帳持たせる、別れるときにはそっくりくれてやって、カマドの灰まで渡して、おのれは身一つで出る。そのくりかえしや」「鞍馬天狗むっつり右門、コワモテの二枚目が、女と財産とりあい、できまっかいな」

 「祇園の芸妓総揚げにした」阪妻など大スターの女遊びに寛容だった時代があったが、時代は変わった。変わったのは、クロウトとシロウトの境目が曖昧になり、 芸者衆は減り、キャバクラ嬢が増えるなど芸人の遊び相手が変わるとともに、お茶屋遊びからホテルへと芸人の女遊びの場所も変わった。芸人はシロウトを相手に女遊びするようになり、それをネタとするメディアも増えた。

 女遊びと性加害の境目は曖昧だ。性交渉について何らかの同意が相手と成立しているなら女遊びで、女の意思に少しでも反することがあって何らかの強制を伴う性交渉が行われた場合が性加害か。何らかの同意とは恋愛感情の共有であったり金銭など何らかの対価の授受であったり様々だろう。人気商売の芸人が盛んに女遊びをすることは昔も今も変わらないが、シロウトを相手にする芸人は地雷原を進んでいるとの覚悟が必要かもしれない。

時間の存在

 時間には実体がない。物質でもなくエネルギーでもなく、どこに存在するのか誰にも分からない。だが、時間が存在すると誰もが確信しているようで、生活や社会活動など人間が関係する行動に時間は密接に関わり、時には、決められた時間に合わせて行動を強いられるなど、時間は人間の行動や活動を支配しているかのようにも見える。

 時間は測ることによって現れる(=意識される)。時間を測るためには何かの動き(運動)を必要とする。おそらく太古に人間は、日の出から日没までの太陽の動きを1区切りとして1日とした時間の感覚を持ったのだろう。それは太陽の動きによって時間を測ることである。日時計から水時計、さらに重りやゼンマイや振り子を動力とする時計が誕生し、現在ではクオーツ時計や太陽電池発電式時計などが一般化したが、何らかの動き(運動)によって測っていることは共通する。

 静止状態では時間を意識することは難しかったりするが、何かの動き(運動)があると時間の経過が意識され、時間の存在が現れる。真っ暗な部屋に閉じ込められて身動きできない人でも、空腹を感じたり眠ったり尿意を催したりと生命活動という体内の動き(運動)によって時間の経過を意識するだろう。体内時計は生命活動によって支えられる。

 時間と速度の積が距離となるので空間の存在が現れる。距離を時間で割ると速度が現れ、距離を速度で割ると時間が現れる。空間と時間は密接に関係していて、空間に現れる何らかの動き(運動)を用いて測ることによって時間は可視化される。時間と動き(運動)は空間を構成する要素であり、空間を測定するための道具でもある。

 長さや重さも実体がなく、人間が測ることによって現れる(=意識される)。長さや重さも、それに相当する何かが存在すると見なされるが、人間が測るまで長さも重さも現れない。時間も長さも重さも人間が単位を決め、人間が測ることによって存在が確認されるのであり、それらが人間の思考により生み出されたものであることを示す。

 触れることも捕まえることも見ることもできない時間という何かを人間が意識したのは、この世界は動き(運動)に満ちているからだ。太陽や月や風や波や雨など自然現象だけではなく人生や社会の変化なども動き(運動)と見ると、この世界は常に動いて変化し続けていることになる。変化し続けることで世界は基本的な秩序を保っているとの発想もできそうだが、そうなると時間とその秩序形成の関係が気になってくる。

 ※時間を辞書は「①時の流れのある点から別の点までの時の長さ、②時の流れのある一点。時刻、③時間の単位。3600秒、④学校などで授業の単位として設けた一定の長さの時。時限、⑤[哲学]空間とともに世界を成立させる基本形式。出来事や意識の継起する流れとして意識され、過去・現在・未来の不可逆な方向を持つ、⑥[物理学]自然現象の経過を記述するための変数」などと解説する(大辞林)。

財界の静かな憤り

 「日本の未来を守る〜日本社会と民主主義の持続可能性に向けて〜」の言葉を掲げて、多くの財界人や大学教授らが集まって発足した令和臨調(令和国民会議)は、「民主主義は政治家のみによって行われうるものではない。わが国の社会と民主主義の持続可能性を守るため、それぞれの立場や利害を乗り越えて、危機を乗り越えるために手を携えよう」と呼びかける。

 その令和臨調が公表した「政治資金制度改革等に関する緊急提言」は、「政治資金制度の緊急改革」で9項目、「政党のガバナンスの改革」で10項目の具体的な提言から成る。前者では、パーティー券の売買を含む現金による政治資金の拠出・収受の禁止や収支報告書誤記載・虚偽記載に対する罰則強化、政党助成制度の点検と見直しなどを挙げた。

 財界の危機感の一端が示されたともいえる令和臨調の提言は基本認識として、今回の疑惑は▽有力政党の有力政治家たちの関与が指摘され、事態はより深刻、▽予算を決め、税を扱い、法律をつくる立場にある政治家にその資格があるか問われている、▽改革の核心は政党ガバナンスの立て直しだ、▽「民主主義のコスト」 について政治の側と国民の側が共同作業として不断の改革を続けるべきーなどとしてる。

 パーティー券を大量に買っていたであろう財界側も、政治献金が多くの政治家の裏金になっていたことには我慢ならなくなったと見え、提言の文章には静かな憤りの気配が各所に滲み出ている。世論やメディアの批判は時間が経てば勢いが弱まり、やがて沈静化すると期待しているだろう自民党は、金ヅルの財界側から具体的な改革を突きつけられ、その場しのぎの改革で済ますことは簡単ではなくなる?

 提言の基本認識では「民主主義のコスト」として、政治に要するカネの存在を肯定し、そのコスト(カネ)を誰が、どのような形で負担すべきなのかを政治の側と国民の側とで率直な対話を開始しなければならないーとする。だが、「民主主義のコスト」には政党助成金に加え、企業団体からの献金が含まれることを前提に、政治資金などを監督する第三者機関の設置など現在の仕組みを厳しく修正すべきという立場にとどまる。

 「政党のガバナンスの改革」では、「政党の必要性が自明視されなくなりつつある危機感を各政党・政治家は持つべき」で、求められているのは「派閥を必要としない党運営・政党ガバナンスの確立に向けた実質的な改革論議」であり、「政党のガバナンス改革を実効あらしめようとするならば、関連する様々な政治分野の改革を必要とする」とした。

 政党に「内部統制の仕組みを確立した上で、ガラス張りの党運営を行うよう」求めるが、「国民の税金を原資とする政党助成金を受け取っているにもかかわらず、各党が必要な対応を行わないのであれば、政党政治の危機に対して政党の自律性に期待するのでは不十分である」とし、政党法の制定を示唆する。

 これらの財界から具体的に示された政治資金や政党を巡る改革要求に自民党が、どう応えるのか定かではない。財界が本気で自民党に抜本的な改革を求めるなら、自民党に圧力をかけるしかない。まず自民党への政治資金の提供を令和臨調に名を連ねる企業群がストップし、改革の進み具合に応じて政治資金の提供を行うようにして改革を強制する。そこまで財界が踏み切ることができるか、言いっ放しの提言に終わるか、試されているのは政党とともに財界だ。