望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





ひよる主人公

 現実の社会では嫌われ者で、その影響力などは「排除」しなけりゃいけないとされている暴力団。そんな連中も映画の世界ではまだ存在を許されているようで、2010年の「アウトレイジ」では、暴力団の血なまぐさい内部抗争が派手に描かれておりました。



 「登場人物は全員悪人」というコピーをTVで目にして、任侠映画に一時期ハマっていた当方としては、むき出しの欲望や打算のままに動く悪人達の織りなす世界の凄まじさや、悪人としてしか生きることができなかった人間像を、乾いたタッチででも描いているのではないかと、つい期待したンです。



 北野武監督作品は「菊次郎の夏」以来の細切れの付き合いでしかなく、監督論は語れませんがね、正直に言うと、何で欧州では高く評価されるのかとの疑問と同時に、なるほどと納得させる作品を今度こそ見せてくれるんじゃないかとの期待が半分でした。



 暴力描写といえば「BROTHER」でも派手にドンパチやっていましたが、北野武演じる主人公は最後に、1人になるとひよってしまい、闘いから逃げようとし、惨めに殺されました。1人になっても逃げずに、死地に臨んで殺されるという男ではないんですね。今回の「アウトレイジ」でも同様でして、1人になった主人公は自首して生き延びようとして、殺されます。



 主人公のこうした殺され方は、美学というには何だか違うな~という感じです。悪は滅ぶというモラルを最後になって監督が思い出したわけではないンでしょうから、暴力団(ヤクザ)は群れている時は威勢がいいが、根性が座っていないので1人になるとショボイ奴らだ……なんて言いたいンですかね。



 ヤクザ映画というと、自ら死地に赴く主人公をたっぷり描いて、大立ち回りがクライマックスというパターンが多かったので、そうした映画へのアンチテーゼとして北野監督は、1人になると闘うことを止める主人公を設定したとも考えられます。でも抗争の場面では、過剰で冷酷な暴力描写を同じように行っているのですから、ヤクザ映画へのアンチテーゼにはなっていません。



 北野氏は演技が上手な役者とはいえず、表情に乏しく、笑った表情か怒った表情か無表情しか演じられません。他者との細やかなコミュニケーションが苦手な人間が、冷酷な暴力をコミュニケーションの手段としていたが、周囲が敵ばかりになった時に、コミュニケーションを放棄し、闘うことをやめて1人で逃げる……そうした主人公像に監督は現実感を感じているのかもしれません。



 してみると、映画では過剰で冷酷な暴力を好んで描いているようでも監督は、暴力を実は信じていないのかもしれません。ヤクザ映画では登場人物間の絆も重要な要素なのですが、人物の造形に力を入れているようにも見えず、「これじゃ、CG頼みで派手な画面をつくるハリウッド映画と、底の浅さでは似たようなものか」なんて印象です。



 そんな映画もあっていいんですが、メディアは「巨匠」の最新作と持ち上げます。たまたま「巨匠」になってしまって、過分な期待が寄せられるようになり、「巨匠」になったことに一番迷惑しているのは監督本人かもしれませんね。



民主主義の限界

 アフガニスタンからまず大統領が国外に逃れ、米軍が撤収し、タリバンによる支配が20年ぶりに復活した。米国の後押しで誕生した民政政府と国軍が少しはタリバンの攻勢に抵抗するだろうとの米国の目論みはあっけなく瓦解、米軍の撤収はタリバンに追い出される格好となった。

 アフガニスタンに民主主義をもたらすことを米国が掲げたのは、アフガニスタンに侵攻したことを正当化するためだった。だが、「与えられた」民主主義はフガニスタンに根付かず、民生政府は腐敗にまみれていたと批判されるなど実態は「頭から」腐っていたとあっては、民主主義の良さを実感するアフガニスタンの人々は多くはなかっただろう。

 アフガニスタンの人々の多くは旧来の価値観に基づく社会で生きており、西欧起源の民主主義の必要性や価値などを理解できなかったのかもしれない。人権や自由など個人の権利を尊重する考え方も西欧起源だが、例えば、イスラム法などを西欧起源の価値観の上位に位置する社会において、民主主義など西欧起源の価値観が根付きにくいのは当然か。

 日本など西欧起源の民主主義が定着した社会は、統一国家が誕生した後に中央政府に対する人々の批判が活発に行われていたという歴史がある(そうした批判を封じ込めるために中央政府は従わない人々を弾圧した歴史もある)。自由を求める人々が存在したから、強権支配する中央政府が倒れた後に、民主主義が機能する社会に移行することができた。

 西欧起源の民主主義の必要性を理解しない人々が多数を占めている社会では、政治体制としての民主主義が導入されたとしても脆く、定着しても西欧における民主主義とは様相を異にする民主主義になったりもする。民主主義の精神を持たない人々にとって、民主主義の必要性は実感できないだろう。

 世界には自由選挙などを導入して民主主義の体裁を整えた国は多いが、ロシアなど強権支配が実態である国も珍しくない。制度としての民主主義は社会によって変形するものであり、西欧だけが民主主義の解釈権を独占しているわけではない。国情に合わせて様々な民主主義が存在するのであれば、民主主義という言葉の定義は複雑になる。

 タリバンは西欧起源の民主主義とは別種の国家を形成するだろう。サウジアラビアなど西欧起源の民主主義を拒否している国は珍しくなく、ロシアなど独自の民主主義体制の国もあり、中国など1党独裁を続ける国もある。西欧起源の民主主義の広がりには限界があり、多様な統治・支配形態があるのが現在の世界だ。

犠牲者を減らした?

 2010年に広島の平和記念式典に初めてアメリカ政府代表が参加したが、献花もせず、発言もしなかった。残念がる向きもあるが、発言できなかったのだろう。チェコオバマ大統領が演説し、核廃絶に触れても理念の問題に閉じ込めておけるだろうが、広島では過去の現実に結びつけて受け止められる。



 アメリカでは反発もあって、例えば、B29爆撃機エノラ・ゲイ」機長の息子がルース駐日大使の出席を批判し、「原爆投下で戦争終結が早まり、多数の命が救われた。我々は正しいことをした」との父の生前の主張を述べたそうだ。



 多数の命が本当に原爆で救われたのか、検証は不可能だ。兵士や国民の命を軽んじる当時の日本軍のことを考えると、米軍の日本本土上陸作戦が行われたなら、多数の日本人の命が失われたであろうことは確かだろうが、起こらなかった歴史をもって、起こった歴史を正当化することはできない。



 米軍の死者に限定して考えると、第2次世界大戦での米軍の死者数は約41万人という。広島、長崎に米軍が原爆を投下せず、米軍が日本本土上陸作戦を行っていたなら、米兵の死者数はもっと多かっただろう。ちなみに沖縄戦での米軍の死者・行方不明者は1万2520人という。



 「多数の命を救うためには原爆の使用が許される」というなら、その多数とは何万人ぐらいか。米軍の死者数は朝鮮戦争では約6万3千人、ベトナム戦争では約5万8千人という。両戦争で米軍は核兵器を使用しなかったので、彼らのいう多数には、両戦争の米軍の死者数は達しなかったのだろう。ただ、両戦争でも核兵器使用が米政府内で検討されたが、反対があって使用できなかったともいう。



 以前に話題になったサンデル教授の、正義をテーマにした「白熱教室」では、「5人を救うために別の1人を殺してもよいか」というトロッコ問題が取り上げられていた。これを広島、長崎への原爆投下に当てはめるなら、「アメリカ兵士を救うためには何万もの他国人を殺すことは正義か」となる。正義だとアメリカ人は言うだろうな。「だって、戦争だったんだから。殺すか、殺されるかだ。勝ったほうが正義だ」と。






氷雪の門


 映画「氷雪の門」は、重いテーマを扱っているものの、当時のアイドルを集め、ベテランで脇を固めた趣の作品。アイドルらは、楽しい時ははしゃぎ、悲しい時は泣き、深刻な場面では神妙な顔をするだけ。人気はあるが演技力に期待できないアイドルを主役に映画を作る時には、ベテランで脇を固める作り方をする。



 南樺太の真岡郵便局で電話の交換業務を担当していた女性9人が、1945年8月20日ソ連艦船の艦砲射撃後に上陸して来たソ連軍が局に迫ると、集団自決した。映画はその事件を描いている。



 1945年8月9日にソ連は、広島に原爆を落とされて敗色濃厚な日本に対して、日ソ中立条約を一方的に破棄し、日露戦争のあと、日本領となっていた南樺太に侵攻を開始し、8月15日以降も攻撃を続け、日本軍が送った停戦の使者を殺害、8月28日にソ連軍が樺太全島を占領した。日本では沖縄でだけ本土での地上戦が行われたと言われるが、それは間違い。南樺太での対ソ連戦も本土での地上戦であり、最後の地上戦であった。



 ソ連は、うまいことをやった。玉音放送を聞いて戦意が低下した日本軍相手に、取れるものは取れるだけ取る……てな感じで終戦間際に攻撃を始め、北方4島と南樺太を軍事力で占領し、実効支配を続けている。おそらくソ連は、ドイツの一部を占領して東ドイツとしたように、北海道占領をも狙ったのじゃないか。でも、時間が足りなかった?



 ロシアは2010年に、1945年に日本が第2次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を大戦終結の記念日とする法案を制定した。終戦の8月15日以降にも侵攻を続けたとの日本側の批判に、やましいところが恐らくあったのだろう。ロシア国内法で北方4島と南樺太の占領に「お墨付き」を与えることが狙いらしい。共産主義であろうとなかろうと倫理性に欠けるというロシア(ソ連)の本質は変わらない。



 日本軍も8月15日以降もソ連軍相手には戦闘を続けるべきだったのか。しかし、侵攻してくるソ連軍相手に8月15日以降も日本軍が戦闘を続けていたなら、日本と連合国側との戦争が終結したとは認識されず、9月2日時点の降伏文書調印はなかっただろう。8月15日以降にアジア各地や日本国内で日本軍の武装解除が進められたからこそ、9月2日の降伏文書調印が行われた。



 映画では、「鬼畜」ソ連兵が真岡郵便局に迫り、「清いまま死にたい」と次々に毒をあおる9人の集団自決がクライマックス。実際の状況とはいろいろ違っているらしいが(「永訣の朝」川嶋康男著、河出文庫)、そこはアイドル映画、出来事の大筋の雰囲気は伝えている。



 1945年8月15日以降のソ連軍の日本侵攻について、もう日本のメディアは声高に言わない。いつまでも「歴史問題」を振り回す中韓に比べて、日本は潔いのか、忘れっぽいのか。どちらにしても、日本の手持ちの外交カードを少なくしていることは間違いない。


政権交代のチャンス

 感染爆発という状況に現在の政府が無力とも見えるのは、最優先の課題が何かをはっきりさせることができず、状況の後追いで手一杯だからだろう。新規感染者が大幅に増え、医療体制は逼迫し、経済活動の浮上のメドは立たず、生活に困窮する人々が増え、一方で外出自粛を呼びかけても人々はあまり真剣には受け取らなくなった。

 現在の政府は、人々に向けてポジティブなメッセージを発することもできていない。長引くパンデミックに人々は自分や家族らの感染の不安のほか、収入減や失職などによる生活不安などに直面し続けている。政府や政治家が人々に「よりそって」いるのなら、人々の不安を鎮め、少しでも前向きの気持ちを持ってもらうためのメッセージを発するだろう。

 政府が無力で人々の政府に対する信頼も低下していると見える今、野党は総選挙を待たずに政権交代を要求するチャンスだ。状況の後追いだけの現在の政府と与党にすぐ下野することを要求し、感染爆発の状況にも「我々なら、もっと適切な対応ができる」と具体的な政策を掲げ、人々の支持を得て新しい政府を形成するチャンスだ。

 だが、野党は政府を批判するだけで、現在の政府や与党に代わって政権を担おうとする姿勢を見せない。それは、第一に野党に政権をいつでも担うという意思がないからだ。第二に政権を担う準備がなく、独自の具体的な政策がない。第三に政府を批判するだけの存在である野党という立場に満足しているからだ。

 政権を担う意思がなく、政権を担う準備がなくても、野党が人々に「よりそって」いるのなら、人々の不安を鎮め、励ますメッセージを独自に発することはできる。だが、それも野党は行わない。政府を批判することだけが自分たちの責務だと思い込んでいる気配で、野党の議員は国会議員として相応の収入と地位を維持できることで満足し過ぎているのではないかと疑いたくなる。

 野党に独自の政策があったなら、長引くパンデミックに無力と見える政府が下野しない場合、緊急時における総力戦体制として閣外協力する方法もある。だが、野党は政府批判だけで、事態の打開に向けて具体策を示して協力する姿勢を示さない。政権の支持率が低下傾向だから野党は総選挙で有利かというと、野党に対する支持率は低迷する政府に対する支持率よりはるかに少ないのが現実だ。

 政府も与党も野党も、つまり政治家も政党も人々に「よりそって」いない日本の現在。人々の不安や痛みや嘆きなどを掬い上げて国政に反映させるのが民主主義における政治家や政党の責務だろうが、政治家が「上級国民」に化しているのなら、人々は統治や支配の対象でしかない。これは、主権者である人々が権力に従順であり続けたことが招いた状況でもある。





温暖化のせい?

 え~、暑うござりますな。平安時代は現代より気温が高かったと言いますから、平安時代はこんな様子だったのかと思ったり、縄文時代は現代より更に気温が高かったといいますから、もしかして今夏の暑さは縄文時代並みかなんて思ったりしますな。



 こう暑うなってくると、「暑いのは温暖化のせいだ」と言い募る手合いがぞろぞろ出てきますな。「だって暑いんだも~ん。温暖化だよ、温暖化!」なんて断言するんでしてね。深刻ぶるのが好きな連中は、何かを告白するかのような調子で、「毎日こんなに暑いのは異常です。温暖化による異常気象でしょう」なんてボソボソと言うんです。



 メディアでは天気キャスターなんて連中が、今夏の暑さの理由を、偏西風がロシア西部や日本付近で蛇行して偏っているから……なんて説明してますがね。なぜ、偏西風の蛇行が起きるのか……そこは説明してくれません。偏西風が北に偏って、南からの高気圧の張り出しを許す地域では暑うなるんですが、温暖化論者にかかると、偏西風の蛇行も温暖化による現象とされそうですな。



 温暖化の結果として偏西風の蛇行が生じるのか、偏西風が蛇行するから地域によっては猛暑の場所も現れるだけなのか……どっちなんでしょうかね。でも、こう暑いと、面倒くさいことは考えず、「全部、温暖化のせいにしとけ」なんて調子で済まされそう。ホントのところは誰にも分かっていなかったりして。



 偏西風の蛇行は今夏に初めて現れたものじゃなく、頻繁に蛇行があり、それで夏には猛暑になったり、冬には寒波に覆われる地域が生じるのですがね、喉元過ぎれば何とやら、誰もいちいち覚えていないようで。偏西風の身になってみると、決まりきったコースを毎年たどっているてえのも退屈でしょうしね、蛇行したくもなりましょうや。



 人間の一生を基準にすると、100年に一度の出来事はエライ出来事で、1000年に一度の出来事は驚天動地の出来事で、1万年に一度の出来事は想像もできない出来事でしょうな。でも、地球を基準に考えると、1万年に一度の出来事も、よくある出来事でしかないでしょう。さて、地球温暖化なるものが、どの程度の頻度で生じるものなのか、知りたいものですな。







四ツ葉マーク

 警察庁が2010年に発表した高齢運転者標識の「もみじマーク」に代わる新デザインは1万4千点以上の公募案から選ばれたものだという。四ツ葉のクローバーに、シニアのSを組み合わせてデザインされたという新デザインは、「もみじマーク」より凝ったものだが、目先を変えただけでしかない。



 高齢運転者にマーク装着を促し、他のクルマと選別するのはなぜか。高齢者は加齢で身体機能が低下し、運転に支障を及ぼす恐れがあるから……と高齢者マークを表示するよう一度は改正道交法で義務づけられた。簡単に言えば、高齢者が運転するクルマに周囲は注意する必要があるから、マークをつけるようにした。



 社会の高齢化の進展とともに高齢者の運転免許保有者は増え、高齢者の運転による事故も増えているそうだ。でも、高齢ドライバーの人数が増えたのだから、高齢者による事故も増えるのは当たり前だ。

 メディアでは高齢ドライバーによる高速道路の逆走やアクセル・ブレーキの踏み間違いなどによる事故が報じられる。高速を逆走した高齢ドライバーの中には、高速だとも逆走だとも気づかずに走っていた人もいたとか。



 高齢者の交通事故防止ブログによると、高齢者の交通事故の特徴は、1)交差点での出合い頭事故や右折時の事故にかかわる割合が高い、2)信号、標識の見落としが多い、3)安全不確認、一時不停止の割合が高い。永年の運転の慣れから一時不停止による事故が多い、4)運転機能の低下からくるハンドル・ブレーキ操作不適による事故が多い、5)「狭い道路での信号機のない中小規模の交差点」「カーブ」での交通事故が多い、6)夕方5時台が、最も高齢者の死者数が多い。



 これらは高齢だけが原因とも言い切れないだろうが、高齢者の事故が増えていると聞かされると、高齢者の運転する車に対する注意喚起もありかとも思う。でも、それなら未熟練の女性ドライバーはどうなの?とか、免許を取って慣れた頃の3年内の事故が多いと聞くと、初心者マーク装着は1年だけでいいの?なんて疑問も出てくる。



 現在、初心者マークと聴覚障害者マークは装着が義務づけられ、高齢者マークと身体障害者マークは装着が奨励されている。そのうちに、「赤ちゃんが乗ってます」マークも法制化され、サンデードライバーマークも義務化され、事故を起こした経験のあるドライバーには事故喚起者マークなんて義務化され、ついでにドライバーの違反点数の車体への表示も義務化されたりして。



 運転に不慣れなドライバーや、周囲が注意する必要がある車などにはマーク装着の意味があるのかもしれないが、細かく個別のマークを設定するより、一つに統一したほうが良い。初心者マークも高齢者マークも他のマークも一つのマークに統合するのだ。



 最も知られているのは初心者マークだろうから、これに統合するのが良い。周囲のドライバーに注意を促し、幅寄せなどを禁止して、当該車両への注意喚起と保護を促す統合マークとする……でも、個別にマークを設定することで関連団体の仕事を創出することができるので、警察関係の天下りと関わってくるかもしれないなあ。そうなると、マークを減らすなんてことはできっこないか。