望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

H氏のマフラー

 流行りには敏感なH氏は、この冬はマフラー、それも長いものが流行っていると聞き、さっそく真っ白の長いマフラーを買った。

 久しぶりの休日、出掛けにマフラーを首に巻いて前に垂らすと妻が「今年の流行はこう」と、首を一巻きして後ろに垂らした。「俺に似合うかな」、H氏は流行を初めに取り入れる際のいつもの軽い違和感を無視しようとしながら、出掛けた。

 「相変わらず趣味がいい」との声に振り返るとO氏がいた。一時は飛ぶ鳥落とす勢いだったO氏も最近はさっぱり。「お茶でも飲もう」と喫茶店に入り、様子だけはいつもの妙に頼もしげなO氏にH氏、つい漏らした。「社長レースに勝ったはいいが、幹部連中はそっぽを向いたままで、若手は様子見だ。会社設立に一番多く金を出し、今や業界2位にまで成長させたのに、何で俺は評価されないのか」

 O氏の目がきらりと光り、「遠慮なく言わせてもらうが、業界2位に甘んじているから社内に弛みが出るんだ。どうせ1位にはなれないし、でも3位に落ちることもない。そんな緊張感のなさが社内人事にばかり社員の目を向けさせるんだ」。

 H氏はうなづき、「どうしたらいいのか判らない。何を言っても悪くばかりとられる」。O氏は笑い、「業界1位の会社のK社長を見ろ。口ばかりで構想力も実行力もないのに、はっきりとした物言いだけで人気を得ている。君も、理念を高く掲げるんだ。そうすれば同士は必ず現れる。業界1位を目指すんだ」。

 励まされたH氏は、すっかり、その気になり、業界を改革しなければいけないとO氏と意気投合、理念の実現に一歩でも近づくためには業界1位にならなければならないと弁ずるうちにH氏、「そうだ。君の会社と合併しよう。そうすれば、1位の会社だって呑気にはしてられまい」とパッと目の前が広がったような思いで嬉しくなった。

 翌日、気分よく真っ白なマフラーを巻いて出社したH氏は、新聞が嗅ぎつけて合併話を記事にしたため、それを読んだ幹部連から会議室に呼び出されてつるし上げられ、話せば解ってもらえると理念なるものを力説したが、幹部連にも各自の理念があって、話すほどに理念同士がぶつかりあって混乱、とうとう収集がつかなくなった。

 くやしくてH氏、涙を溜めて「ボクは辞める」と言った。誰かがとめてくれると思っていたのに、幹部連はH氏そっちのけで、後任社長を誰にするかで、もめ始めた。

 寂しくH氏は会議室を出たが、もう仕事をする気にもなれず、マフラーを巻いてコートを手に持ち、「今日は戻らない」と言い、慌てる秘書に取り合わず、さっさと会社を出ようとしたが、垂らしたマフラーが後ろになびき、ドアに挟まってH氏、首を絞められて尻餅をついた。また、涙ぐみながらH氏、「こんな業界、ボクには合っていなかったんだ」と数時間前までの理念も失い、“足を洗う”ことを決めた。