「理性や知性があれば人間は怒らずに生きることができるものです」という言葉を目にしたことがあります。しかし、理性や知性は全ての人間に具わっているものなのでしょうか。少なくとも,先天的に全ての人間に具わっていて、人間は自然に理性的・知性的に振る舞うとはいえないように思えます。生まれによる区別をしようというのではありません。理性や知性はある程度,意識的に身に付ける努力をしなければ身に付かないものでしょうから,身につける努力が必要です。それが本来の教育の目的だったはずですが……。
ユーゴスラビアの解体過程で顕著だったように,仲良く平和に暮らしていた人々が、一方が民族意識を強調し始めた途端に,平和的な共存は壊れます。そうなると、過去の歴史もほじくり返され,被害者意識も自己正当化を支える材料になり、ののしり合い,憎み合い,武器を手に殺し合うようになります。自分を見つめ直すことより,相手の非を問うことに熱心になります。
中国が世界経済の中で大きな比重を占めるようになってきました。世界経済の中心は欧米から東アジアに移るとの見方も有力です。16、7世紀は東アジアのほうが欧米よりも経済規模が大きかったといいますから、数百年ぶりの「アジアの世紀」の到来です。
一方では,そううまく行くのかねという声もあります。中国は政治・社会体制に脆弱性を抱えています。また、モノの生産・販売という面では東アジアが中心になるかもしれないが、実体経済の規模を遥かに上回る金融資本の多くは欧米が握っています。過去の各地の通貨危機でも見られたように、金融資本は今や国家さえも翻弄するほどの規模です。モノの生産・販売では東アジアが主導権を取ることができても,経済の首根っこは欧米に押さえられているという見方です。ただ、金融資本という面では中国人もしたたかです。資本を急速に蓄積している中国人が欧米資本に易々としてやられるはずはないとの見方もあります。
実態はともあれ東アジアが世界経済の中心になるのは間違いないように見えます。そこで気になるのが「政冷」です。中国などで反日意識が煽られ,日本でも中国などへ嫌悪感を持つ人が増えています。経済面の結びつきが強まっているとはいっても、互いに嫌い合っていては、「アジアの世紀」は台無しです。
中国政府の狙いは明確です。独裁政治を続けていくには、経済成長を維持しつつ,民衆の不満を適度にガス抜きしなければなりません。そこで、侵略戦争を「反省しない」日本がガス抜きの格好の標的に選ばれたのでしょう。日本の狙いは何でしょうか。歴史の清算は終わりにし、中国の独裁政治は暫く続くだろうから「妥協していてはキリがない」と見ているのかもしれません。
そこには、政治とは別に経済面は順調に進んでいくという判断が両国政府ともにあるように見えます。しかし、民族主義は火が一度つくと,政治で抑えることは容易ではありません。中国政府が弱体化すれば反政府デモとともに反日デモが全国で巻き起こるかもしれず、そうなると日本での反中感情にも火がつくでしょう。「アジアの世紀」が、経済ではなく、政治的な大変動という意味で実現するかもしれません。
民族意識は情緒が絡む物語です。例えば中華民族という、言葉も習俗も異なる十数億の人々を一つの民族に仕立てる作業が現在進んでいて、日本では,A級戦犯の責任を不問にして「英霊」の中に紛れ込ませようというインチキも行われています。理性・知性を感じさせる声がほとんど政治家から聞こえてきません、どの国からも。
理性的・知性的に振る舞うよりも,情緒的に声高に言い募り,より多く相手を批判した人間がうけるような時代は不幸の始まり,いや、不幸の中にある時代なのかもしれません。対立を煽るようなメディアの騒ぎに流されないためにも,理性・知性を身につけることを意識的に行っていく必要があるようです。