望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

雪が降り掛かる

 こんなコラムを、北関東に大雪が降った2006年の1月に書いていました。

 国境のトンネルを抜けない前から,そこは雪国だった。数十年ぶりという豪雪をこの目で見んと思い立ち,上毛線を新潟に向かった。高崎を過ぎ,車窓には、遠くに見えていた山々が次第に近付いて来る。列車が進むにつれて、見えて来る山の上部は雪が残っていて白く,その白さが北に進むにつれて徐々に麓に降りて来る。列車は右に左にと弧を描き,近くの山々の間から時折見える遠くの山々は真っ白だ。沼田辺りからはすっかり白い雪景色となり,その雪の積もりかたが、列車が進むにつれて、どんどん増えて来る。そして水上。その先は運休となっていた。


 水上駅から少し歩くと,除雪された車道以外は雪に埋もれているという印象。家々の屋根には雪が厚く積もり,無住らしき家の屋根の雪はひときわ厚い。道路の両脇には除雪された雪が3、4メートルにもなろうかというほど積み上げられている。その中程から下はガチガチに凍っている。利根川には深い青緑色の水が勢いよく流れ,木々には風向きを示すように雪がこびりついている。見上げると山肌には雪が厚くへばりついている。年間降雪量を12月ですでに上回ったといい、「これからが冬本番なのに,こんなに降って,この先どうなるんだろう」「毎朝,雪かきだけで11時までかかる」などと地元の人は浮かない顔だ。


 鉄道や自動車などがなかった時代,人々は雪に閉じ込められて生きてきた。北国では雪が積もったほうが人々の行動範囲は広がり、冬季に広く交易が行われてきたという研究もあるが,山間部に定住する人々にとって雪は生活を制限するものでしかなかったろう。雪に閉ざされた中で人々は毎冬,自然の力の大きさと人間の無力さを実感してきた。自然と調和して生きざるを得なかった。


 汚れちまった悲しみに,今日も雪が降り掛かるーあらゆるものを雪は白く覆う。白く覆われたことで何かが変化し,状況が変わったかのような錯覚にも陥るが,春になって雪が融ければ,地面も山も木々も草原も田畑も元通り。同じような春が来て,同じような夏が来る。変化がないのは別に悪いことでもつまらないことでもないと気付くにも、人間には時間がかかる。雪が融ければ悲しみだって喜びだって蘇ろう。汚れちまった悲しみを人はまた,抱き続ける。喜びも。


 肌を突き刺すような寒さの雪景色の中で、襟を立てて目を細めて雪原を見ていると人は黙り込み,孤独を感じ,やがて人恋しくなる。自然に比しての人間の無力さを感じるのかもしれないが、そんな孤独は所詮は旅行者の感傷でしかない。例えば東京で雪が20センチも降れば交通網は大混乱しようが,無力感や感傷に結びつくことなどあるまい。自分の生活の場から離れたところで起きることは,非日常である。情報として消費されるだけでしかない。