“やられたら、やりかえせ”。かつてイラクでは報復合戦がスンニ派とシーア派間でエスカレートしていたが、政権側のシーア派に対してスンニ派が分離独立を求めているわけでもなく、シーア派がスンニ派の追い出しを図っているのでもなかった。権力奪取を目指すのではなく、ただ相手方の殺害だけが狙いという戦闘状態は出口のない悲惨な迷路だ。
戦闘当事者のどちらかが分離独立を掲げたのなら、内戦という言葉は理解しやすい。なぜ分離独立を言い出さなかったのか。シーア派は政権を握っていて、スンニ派は分離独立を実現できたとしても、その“領土”には油田は含まれない。さらに報復合戦を行っていたのは双方とも全体からすれば少数で、スンニ派・シーア派は長く共存してきた。
戦いには大義名分が必要だ。あかの他人を殺害するには殺害を正当化しなければならない。特に集団で殺害を行う場合は、国家意識や宗教などの共有する動機付けが必要となる。アメリカは自由・民主主義を持ち出して世界各地で殺人行為を行う。一方では、独立や民族自決は戦闘の格好の理由となる。歴史を振り返ると、そうした理由で多くの殺人が行われてきた。
イラクで続いたのは、大義名分による戦闘ではなく“仕返し”のエスカレートである。被害者意識が自分らの報復行為を正当化しているのであり、大義名分を持ち出す必要はない。大義名分が必要になるのは、権力を目指すようになった時である。