望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

只見線で空間と時間の旅

 こんなコラムを、只見線の全線に乗車することができた2008年に書いていました。

 JR只見線は、福島県会津若松新潟県の小出を結ぶ全長135キロのローカル線だ。山々の間を縫う只見川ぞいに走る只見線の列車の車窓から見る景色は、「絵になる」光景の連続。

 川沿いに走るローカル線は日本各地にあり、それぞれに美しい車窓風景を見せてくれるが、駅間に人家が少なく、自然美を堪能できるのが只見線。これは一方で沿線住民が少ないことを意味し、赤字路線として廃止対象にもなるのだが、只見線沿線は豪雪地帯であり、沿線住民の「ライフライン」として残されている。

 ひっそり、ほそぼそと生き残っていた只見線の人気が高まっている。というより、鉄道人気が高まって只見線への注目度も上がった。講談社が数年前に出した週刊「鉄道の旅」があたり、中高年男性向けの雑誌では鉄道ものの記事が欠かせなくなった。手軽な趣味として鉄道旅行が見直されているのだろうが、鉄道博物館の人気に見られるように、鉄道旅行や鉄道を好きな人がもともと多く、「カミングアウト」しても、もうオタクと見られず、趣味の一つとして認知されたのだろう。

 会津若松戊辰戦争で官軍の攻撃を受けて大きな被害を受けた土地だが、只見線の新潟側始発駅の小出のすぐ北、長岡も1868年の北越戦争で官軍に攻められ、多大の被害を出した。激戦の末に長岡城が陥ち、当時の長岡藩家老の河井継之助は負傷し、国境の難所、六十里越を越えて会津を目指したものの力つき、只見川畔の民家で死んだ。

 その民家はダム建設に伴って移築され、会津塩沢駅近くの河井継之助記念館に保存されていて、河井継之助終焉の部屋も公開されている。記念館にはガトリング砲も展示されている。もちろん当時の本物ではなく、展示用に復元されたもの。

 このガトリング砲は機関銃のハシリで、軸の周囲に6本の銃身を丸く配置し、回転させて連続発射するというもの。アメリカで1862年に発明され、1861年に始まったアメリカの南北戦争北軍が使ったという。南北戦争は1865年に終わり、余った武器が売られた先の一つが当時の日本。

 日本では1867年に大政奉還があり、1868年が明治元年。この年1月の鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争が始まり、江戸城開城上野戦争があり、5月に北越戦争が始まり、7月に長岡城陥落、9月には会津藩が降伏、1869年5月の箱館戦争終結戊辰戦争は終わった。

 当時、日本に3台といわれたガトリング砲のうち2台を河井継之助が買って、北越戦争で使用されたというが、長岡藩は負けた。ちなみにリンカーン米大統領は1865年4月に観劇中をデリンジャー拳銃で暗殺されるが、その年に河井継之助は長岡藩の郡奉行に就任して藩政改革に着手、会津藩主・松平容保1862年京都守護職となっていた。

 夏は、車窓を全開にして風を受けながら深緑の山々を見るのが只見線の楽しみ。その山々が秋には紅葉に色づき、冬には白と黒、茶色の世界になり、遅い春には桜と花々が一緒に咲く。只見線の四季おりおりの美しい自然美を見ながら、河井継之助はどこを歩いたのだろう、官軍はこの辺りを進んだのかなど、ふと歴史に思いを馳せる……そんな旅も只見線ではできる。小さな不満は、以前は4人掛けボックスを1人占めして足を伸ばし、ゆったり、のんびりした旅ができたのだが、最近は結構混んでいること。知られすぎたのか。