望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「欲しい」と「必要」

 2011年の東日本大震災後には自粛機運による消費縮小が懸念された。破壊され瓦礫となった家屋、家財道具などの映像が消費者心理に影響を与え、被災者への同情とも相まって、消費行動に変化をもたらしたのだろう。一時的な変化なのか、根本にも及ぶ変化なのかは分からないが、単純な「消費を謳歌する」的な消費行動は見直しを迫られた。



 東日本大震災の以前と以後では、世界観が変化したという人がいる。モノが溢れている自分の生活の見直しを始め、不要品の整理等を行ったという投書が新聞の投書欄に載ったりした。凄まじい量の瓦礫の映像を見たなら、自分の身を被災者に置き換え、モノへの執着が薄れることは不思議ではない。



 永六輔氏がラジオで生前、何かが欲しい時に「それが必要なのか、欲しいだけなのかを考え、欲しいだけなら我慢し、必要なら買う」と言っていた。「欲しい」と「必要」の差は大きい。ただ、その差は主観的なもので、どうしても欲しい時には「必要だ」と思い込んだりするのだが、2011年の大震災は「欲しいだけ」の消費を冷やしたのだろう。



 モノへの執着が薄れるというのは、非日常の感覚かもしれない。大震災の映像に衝撃を受けて、被災地にいなかった人も日常の感覚を喪失、命あっての物種だと痛感し、モノにこだわったり、欲しがったりすることの空しさを多くの人が実感したのだろう。そうなってみれば、「欲しい」を煽る広告などを見ても、冷めるだけかもしれない。



 でも非日常の感覚はいつまでも続かない。日常の感覚へと復帰することにより、消費も回復しよう。ただ、メディアが「消費をすることが結果的に被災地支援につながる」と強調し、消費の回復を促すが、一度冷めてしまったマインドは簡単には元には戻らない。



 「欲しい(欲望)」に支えられた大量消費社会が、2011年の大震災により揺さぶられたが、企業は大量消費社会の中にいる。消費させようと企業は、「必要」を装って欲望を刺激する販促を仕掛け、欲望主体の消費は回復するだろう。だが、大震災以前のようなノーテンキな「欲しい(欲望)」肯定の消費社会とは、いささか様相は変わるだろう。