望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

増殖する非日常

 欧州諸国や米国などでも新型コロナウイルスの感染者が急増し、各国政府は人々の外出を制限して屋内での退避を義務づけ、飲食店や小売店などの営業やイベントや集会を禁止、学校を休校させ、さらには外国人の入国を規制するなど次々と強制的な対策を講じている。

 新型コロナウイルス騒動は中国を始めとするアジアの問題だと眺めていた欧米の人々は、平穏な日常を失った。非日常に直面し、自分や家族が感染するのではないかとの不安に怯えつつ、経済活動がほぼ停止したことによる将来の見通しがつかない不安も感じつつ、生き延びるための食糧や日用品の確保に懸命だ。

 各国で人々は買い溜めに急ぎ、スーパーマーケットなど量販店の商品棚が空になった様子が報じられている。各国の量販店は購買個数の制限を導入し、オーストラリアではトイレットペーパーを巡って乱闘が起きたという。人々が争って買うことが多くなったからか高齢者だけの入店時間を設定する店舗も出てきた。

 9年前の3月11日午後2時46分、日本でマグニチュード9.0の大地震が起き、瞬時にして多くの人々が非日常の中に放り出された。東北を中心に広く各地の沿岸を襲った巨大津波はテレビで中継され、それを見た地震の被災地以外の多くの人も「これは現実なのか」と、非日常の感覚を共有しただろう。共有といっても、被災地の人々と同じ非日常の感覚ではなかっただろうが。

 平穏な日常から突然、非日常の中に放り出される経験は日本人の多くが経験している。毎年のように日本のどこかで大きな地震が起き、被災者は非日常に直面する。日本人の多くは、余震が続き、ライフラインが失われた中で生存や生活の不安に怯えつつ非日常を生き延び、やがて日常に復帰する体験を持つ。

 非日常といっても、その具体的な現れ方は様々だ。日常が、人により居住地により国により大きく異なるだろうから、非日常も異なる。電気や水道などライフラインが整備されていない中で暮らす人にとっての日常は、都市居住者の非日常かもしれない。

 大地震が少ない欧米の人々の多くは日本人ほど非日常の経験を持っていないようだ。だが、都市の生活者が買い溜めに急ぎ、量販店の商品棚が空になる光景はよく似ている。それは、都市における生活環境が国を問わず、よく似ているからだろう。非日常に直面し、生存や生活の不安に突き動かされた人間の行動様式には国境がないことが今回の新型コロナウイルス騒動から見えてきた。