望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





「がんばれ」という言葉

 「がんばれ」という言葉が東日本大震災以降、大増殖した。その言葉を発する人は被災者に同情し、励まし力づける意味で使用していて、家族や友人等を失い、自宅を失った人に向けて、更なる特別な奮起を促しているわけではないのだが、被災者に向けて放たれる「がんばれ」という言葉には、妙な落ち着きの悪さが漂う。



 日常では誰かに向けて「がんばれ」という言葉を発する場面は様々だ。スポーツ等の試合に参加する人に向けて「一生懸命やれよ」だったり、弱気になったり落ち込んでいる人には「気合いを入れろ」「元気を出せ」だったり、難題に立ち向かう人には「健闘を」「奮闘を」だったり多彩だ。中には、期待していないことを誤摩化して「がんばってね」などと言って済ますこともある。



 愛する人を失ったり、自宅を流され、仕事先も被災して、「この先どうすればいいのか」と茫然自失の人は「がんばれ」と言われても、内心では「がんばってるさ。これ以上、何をがんばれというんだ?」と思うかもしれない。でも「がんばれ」と言われて、相手の善意を慮って「そうだね、がんばるか」と言ったりする。



 被災者どうしで「がんばろう」と言う時には、決意が込められている。多くのものを失い、どこかに行っても安住の地などない……だから、ここで皆で生きていくしかないという、追いつめられて開き直ったような強さが漂う。恐らく皆は「がんばって」も簡単にはうまく行かないだろうことを薄々感じながらも、「がんばろう」と言うのかも知れない。



 大震災と津波の被災者に向けて発する「がんばれ」以外の適当な言葉は何だろうか。あまりにも悲惨な光景を思い浮かべると、「心中お察し致します」「大変でしたね」「同情致します」等では軽すぎる印象だ。目の前の被災者には「無事でよかった」と言えるだろうが、家族を失った被災者もいるので、気をつけて使わなければいけない言葉だろう。



 日本語には、こういう場合に被災者に向けて発する適当な言葉がないのだろうか。それとも、日常世界の存在である言葉は、巨大災害という非日常の世界に投げ込まれ希薄化されたので、例えば日常では有効な「がんばれ」もどこか白々しく聞こえるのだろうか。巨大災害の惨さを痛感し、涙して、被災者に同情の言葉を伝えたいのに、被災規模が大きすぎて、心情的に適当な日本語が乏しい。



 英語圏などでは「あなたと共にいます」等の言葉が使われる。遠く離れていても、被災者の痛みを共有しているという励ましなのだろうが、日本語にすると、ニュアンスが伝わらない。遠く離れていても一緒にいますと言われても、日本の被災者からすれば「それで?」という感覚かも知れない。