望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

科学と未来予測

 世の中に溢れる多くの言説の中には、「科学的に妥当だ」との装いを強調するものがあり、信用度を高めることに効果があったりする。科学という言葉には、客観的に証明された正しい知見とのイメージが投影されているので、それらの言説も客観的に正しいと見なされることを狙っているのだろう。

 といっても、学術論文とは違って、それらの言説が、本当に科学的に妥当かどうか人々から厳密に検証されることは少ない。誰もが専門知識を持っているわけでもなく、誰もが最新の知見に通暁しているわけでもない。科学的というから間違ってはいないだろう……ぐらいの受け止めかたかもしれない。

 自説に都合がいいように、科学的な装いを利用しているだけじゃないかなどと批判すると、論文やデータなどをまくしたてて反論されたりする。自説に都合のいい論文やデータだけを取り上げているのだろうとは感じながら、相手の理論武装に対して、いちいち検証して反論する労力を考えると面倒くさくなり、「まあ、いいか」なんて再反論をやめることは珍しくない。

 科学的な判断に基づいて行われる事業があったりすると、現実には様々な利害が絡む。関係者はそれぞれが有利になるようにと、それぞれの科学的な主張を行うので、幾つもの「科学的に妥当」な論が出てきたりする。各自の利害が科学的な装いにくるまれているので、まとめることは簡単ではなくなる。

  さらに、まとめるのが難しいのは、未来に関することだ。過去に起きたことや検証可能な事象の解釈であれば「科学的に妥当」という指摘は理解しやすいのだろうが、未来に起きるかもしれない事象における「科学的に妥当」との評価は絶対に正しい……というには限度がある。まだ何も生じていない未来なのだから。

 未来を予測することは科学の得意分野ではない。その予測の正しさを支えるものは、蓄積されたデータと論文だが、過去に起きた事象の延長にある事柄だけが未来に起こるとは限定できず、人類が経験したことのない想定外のことが起こりうる可能性もある。科学が未来について予測するなら、ある事象が起きる可能 性がどれくらいあるかを確率で示すことが「科学的に妥当な」態度だろう。

 科学が未来を予測し、それに基づいて各国が事業を行って大金が動くとなると、全ての利害関係者が、同じように得するか同じように損するかといったラインで妥協するしかあるまい。そうした妥協を政治的に正当化するには、科学が未来を予測する不確かさをごまかしつつ、未来に起こりうる最悪の状況を強調して人々の不安感を高めることが欠かせない。